丁夫人の嘆き(曹操の後庭)四十

          丁夫人の嘆き(曹操の後庭)四十
 
 兗州(えんしゅう)東郡は東西に細長い。西は河(黄河)にぶらさがるように張り付き、なかほどになると郡の中央を東西に河が貫き流れる。延津(えんしん)や白馬津をはじめとする黄河の渡し場がいくつかあるゆえに、水運や軍事の要所である。河の恵みと災いをもろに蒙る地である。河はこのあたりでたびたび氾濫したので、金隄(きんてい)といわれる堅固な隄(つつみ)が城壁のように連なっている。郡の北境は冀州(きしゅう)と都がある司州に接していた。
 
 兗州陳留郡はこの東郡の南隣りである。陳留郡はもと陳留王国であった。太守のかわりに王の政(まつりごと)を補佐する『相』が置かれていた。陳留王(劉協)が董卓に天子に立てられたので王国は郡になった。したがって張邈(ちょうばく)は陳留太守に任命されてまだ半年にも満たない。王国の都は陳留で、由緒ある城は大きい。その陳留から離れた西北の酸棗に義兵を集結させたのは司州への進撃を容易にするためだ。郡の西境は司州に接していたが、陳留城から西方に進むと険しい山越えになり行軍は難渋を極める。酸棗は(さんそう)は平野にあって東西を結ぶ街道沿いにあった。延津を遠ざかること百余里河むこうの西の河内(かだい)懐県に駐屯している袁紹や鄴(ぎょう)にいた冀州牧の韓馥とも連絡が取りやすい。
 
 酸棗の県城は小さい。その小さな城が人であふれかえっていた。衆数万である。近在の郷や邑、亭の城郭に入りきれぬ衆が城外に土塁を築いて屯していた。土塁の中から響く女子供の声を聞く限り、これが兵営かとおもうほどのどかで、にわかに新しい城(まち)ができたような錯覚すら覚えてしまう。
 
 ところで、董卓が任命した地方官のほとんどが叛旗を翻したのである。
 「董卓はなぜ西州から連れてきた子飼いの武将たちで地方を固めなかったのでしょうか?」
 あまりにも不可解だったので、そっと孟徳に聞いてみた。酸棗に来てからからというもの、孟徳は不機嫌で怒りっぽくなっていたので、顔色を窺いながらの問いかけだった。
「おお、あ奴らはのう、董卓の手足じゃが漢の法が通用しない輩(やから)さ。女や財物を掠めるために命を張るが、得にならぬ正義など見向きもしねぇな」
「それじゃ群盗ではございませぬか」
董卓は盗賊の首領さ。その手下は殺せ、犯せ、奪い取れの手合い。戦は富をもたらす手立てでしかないのだ。子飼いを抜擢せずに低い身分に押さえているのは、奴らの本性を熟知しておるからじゃよ。そのかわりに存分に掠奪させた」
 吐き捨てるようにきつい語調でそういうと冷やかに笑った。
「わが君はなにを怒っておられる?」
 思い切って問いを発した。
「怒らずにいられるか」
 待ってましたとばかり孟徳が身を乗り出した。
「諸将のざまはなんじゃ」
「ええ、董卓の悪口を肴に酒宴にふけっておいでですが」
「なんのための義兵じゃ!戦いもせず明けても暮れても酒宴じゃ。董卓の支配を長引かせてはならぬというのに。長引くほど手に負えなくなるのがわからぬか」
 孟徳が唇をかんだ。
 一向に戦わぬ諸将に腹を立てていたのだ。曹仁の部隊が白馬津を護るために移動させられたことにも腹を立てていた。
 東郡の白馬城は白馬山から名付けられたのだろう。白馬山の山上には白馬が群れていて、悲しそうにいななくと河(黄河)の水があふれ、群れが疾駆すれば山が崩れるという言い伝えがあったそうな。白馬城の西北に白馬津がある。この渡し場を護れというのだ。敵は司州だというのに。
 孟徳に言わせると東郡太守と冀州牧の仲が険悪なため、曹仁がかり出されたのだという。仲間割れするときではなかろうに。
 
続く。