丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十一

            丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十一
 
 大悪人、董卓は国家というのものの有り様を思案していた。恐怖をばらまきながら幼帝を立てて天下を奪ったが、当初のやり口は悪辣であるが、善政を施して永の歳月をやりすごせば簒奪の汚名など払拭できると踏んだ。いかにも卓らしいいい加減な考えである。そこで、衆望をになう高徳の士を脅して集めると抜擢した。隠棲していた蔡邕(さいよう)は、家族を殺されるのを恐れてしぶしぶお召しに応じたのである。百官に謀ってこれという人材を推挙させて、抜擢していった。ついこの間までは官位は金で買うものだったから、為政は変わるかに見えた。
人気取りにうつつを抜かしたらがこの様だ。
 「大軍を出せ。山東の反乱軍を一気に叩き潰せ」
 董卓は吠えた。卓にとっては反乱軍であるが、朝廷にとっては義兵である。廷臣はあわてた。叩き潰してなるものか。
 日頃の談論で鍛えられた弁舌を駆使して董卓を言いくるめるが、卓は彼らが推挙した人材が地方で反乱を起こしたことを恨んだ。長安遷都まで反対するとはなにごとじゃと怒って遷都を強行してしまった。
 二月十七日に雒陽を出た天子は三月五日に長安に入った。雒陽の民もまた卓によって強制的に長安へと追い立てられた。疲れ果てて路傍に倒れ伏すものや餓死するもの、牛馬に踏みつぶされるものが数知れなかったと聞く。
 三月九日、董卓は雒陽宮や廟、人家を焼き払った。自らは畢圭苑に居座って山東に睨みを利かせていた。天上の都もかくやと偲ばれた麗しい都が消えたと聞いて、わたしは涙が止まらなかった。なんという暴挙だろう。
 
 「許さぬ!孺子(こわっぱ)め、わしをなめるとどんな目に遭うか、目に物見せてやろうぞ」
 董卓は、義兵が起こり、その盟主が袁紹だと知ると雒陽にいた太傅の袁隗、太僕の袁基などを捕らえて獄につないだ。
 その袁隗たちが三月十八日に殺されたという。
 幼児をふくむ男女二十余人あるいは五十余人とも伝わり、正確な数は不明であるが都にいた袁氏一門は絶えてしまった。
 袁隗は袁紹の叔父で袁基は袁術の同腹の兄だ。
 
 豫州(よしゅう)汝南(じょなん)汝陽(安徽省周口市)の袁氏は経学で身を立てた。袁紹の七代前が経学でもって朝廷に仕えた。二百余年前から経学で一家を成していたのである。王莽(おうもう)の乱光武帝の統一を経ても袁氏の血脈は健在で、袁紹の四代前から顕官を歴任して今に至っている。孝の最たるものは子孫を絶やさぬ事を実践してきたらしく袁紹、術の祖父である湯は、八十二歳で天寿をまっとうしたが、子福者で息子だけでも十二人ももうけていたから、孫の数ともなればどれだけいたものやらさっぱりわからない。
 かように勢力をはった袁氏である、弟子の数ともなれば膨大である。袁氏一門の刑死が伝わると、袁紹のために義兵をあげる者が続いた。
 董卓は袁氏一門の亡骸を長安の青城門外に埋め、標(しるし)を立てておいた。のちに長安からさらに西の郿(び)に移るときに、袁氏の門生に亡骸を奪われることを恐れて掘り返し、郿に移した。
 人は魂と魄(はく)でできている。魂は人の精神を司り、魄は肉体を司る。人が死ぬと土に帰すべき魄を墓に祀る。魂を祀るものを廟という。董卓は袁氏憎さに亡骸を祀らせなかったのだ。
 
続く