曹操の刺客と劉備

劉備はおっとりとしたところがある。
漢王朝の血をひくといっても、宗室の遠い血筋だから、親の七光りで日のあたる道を歩けるわけではなく、貧窮の中で育っている。しかし、天性のおおらかな気質は人を魅了した。劉備の本質は、人間好きというか「人間を信じる」にある。そこが、人を惹きつけるらしい。
「うちの大将は人にほれ込みすぎるが、ちっとは警戒しないと危ない、危ない」と、周囲の者に保護者意識をいだかせてしまう。はらはらして、なんとか守ってやらねばと思わせるような男、それが劉備のように思えるのだ、猫守には。

曹操は、劉備にむけて刺客を放った。
刺客はまんまと劉備に目通りする機会を得た。刺客は、劉備の気をひくために曹操を滅ぼす策をとうとうと論じた。またそれがことごとく劉備が考えていた計略と一致している。ああ、肝胆相照らすというが、世の中にはこれほど話がわかる男がいるとは、劉備はすっかり気をよくした。
「これ、これ。苦しゅうない。もっと近う寄れ」
すぐれた男とは、膝を交えて語らいたかった。

むかし、劉備はここぞと思う男と牀(しょう。寝台のこと)をともにすることが、たびたびだった。怪しんではいけない。他意はない。「わしは、お主を心から信頼している。寝首をかくような真似をする男ではないと信じたぞ」と態度で示したのだ。「そこまで信頼してくれた」と、相手は感激する。

刺客が劉備ににじり寄る。にじり寄ったものの、失敗はゆるされない。神経を研ぎ澄ましてじっと間合いを計っていた。
そのときである、足音がした。刺客は、はっとわれにかえる。振り返ると、広間の入口に長身の男が立っていた。なんと、諸葛亮(字は孔明)だ!
あっと刺客は顔色を変えた。孔明が刺客のそばにきた。うろたえながらも刺客はまだ劉備と言葉をかわしていた。孔明はじっと刺客の様子を見守る。視線に耐えきれず、刺客はとっさに腹をおさえた。
「腹を下したようじゃ……ちと、厠(かわや。便所)に急ぎますぞ」
刺客は小走りに広間を抜け出た。
一方、劉備は上機嫌で孔明に言った。
「さきほどは実に優れた男に会った。君を補佐するに十分足りるぞ」
「その者はどこにおられますか」
「さきほど席を立った男だよ」
劉備の言葉に孔明は息をのみ、しばらくすると、ため息交じりに言った。
「先ほどの客人を見ましたが、顔色が変わり、心は動揺している様子がみてとれました。視線は低く、目を合わさず、逆らうような様子がたびたびあって、邪心を心にしまっておいても、悪事を働こうとしている様子が、ありありと現れていました。きっと曹氏が放った刺客でしようよ」
あわてて刺客を追わせたが、すでに垣を越えて逃げ去った後だった。

三国志「蜀書」の注記より意訳