丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十二
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十二
世が世ならば、袁隗も袁基も玉柙銀鏤(ぎょくこうぎんる)を下賜され、玉で亡骸は覆われたはずだろう。けれど、袁氏一門への惨い仕打ちをいつまでも噛みしめている暇はなかった。もっと恐ろしいことが行われていたのである。
奇妙な一行が酸棗に身を寄せた。仏僧とその下僕たちと巫覡(ふげき)である。 「揚州はずっと遠いのか?」
僧は、はなはだ心もとない問いを発した。
「あんた、ここは兗州じゃ。群盗がうろついとるもんじゃて、とてもじゃないがその人数では無理じゃのう」
兵卒の言葉に僧は肩を落とした。
「人改めをせんといかん。変わった顔をしとるが生まれはどこじゃ?」
「天竺じゃ」
「天竺とはまた遠方じゃのう」
兵卒は目を丸くした。
異形の僧が現れたという噂がとんだらしい。僧たちを取り囲む人の輪が幾重にもできた。通してくれ、通してくれと叫ぶ男の声がした。聞いたような声だと思えば博労の李だ。
「おおっ。沙門仏恵さま」
博労が駆け寄った。僧は目を大きく見張って博労をみるとくしゃくしゃと顔を歪める。今にも泣き出しそうな顔で笑った。
「そなたは馬の親方じゃ。わが弟子の仏図慧は揚州に着いたか?」
「はっ、無事に送り届けやした。文は届きませなんだか?」
仏図慧の文は届かなかったらしい。僧は力なくかぶりを振った。
「よう、ご無事でおられやした。あっしは道が塞がっていて都にいけず、沙門の身を案じていやした」
「御仏の加護とそなたにもろたこれが役にたちましたぞ」
仏恵は懐から布にくるんだ札のようなものを出した。
「あ。それはしまっておくんなせぇ」
博労はあわてて布包みを仏恵の懐にねじ込む。
黄巾の通行手形に違いない。すると白波の賊か黒山の賊の間を通ったらしい。
「匈奴(きょうど)の騎兵がえらく荒らしまわっておった。おかげで昼間は隠れて夜になると歩いた」
「そりゃ難儀なことで、虎や狼に震え上がったことでござんしょ」
「匈奴にも仏を信じる者がいての、わたしどもを助け守ってくれた」
「ようござんした」
博労は僧の手を取ってすすり泣いた。
一行に巫覡が居ると聞いて孟徳は彼らを召した。
神降ろしでもさせる気かしら?鳴り続ける太鼓の音、美しい巫女が肌もあらわな薄物をまとって跳ぶうちに神が乗り移る。妖しくも美しく、どこか淫らなものを思わせる神降ろしを見ると、封印されていた悪しきものたちが躍り出そうな予感がして、はらはらどきどきする。わたしは神降ろしをみるのが好きだが、そんなわたしを孟徳はふんと鼻先でせせら笑う。
僧の後をついて来たという巫(おんなみこ)と覡(おとこみこ)たちはまるで神降ろしをするような声音でおそろしい出来事を語った。
「恐ろしや、のう。恐ろしや。われは天下に君臨する帝王なるぞ。わが黄泉の眠りを妨げる者は誰か?」
巫が居丈高に声を張り上げた。少女が遠慮がちに太鼓をどんと打つ。
「鬼神もわしの前にひれ伏すぞ。われは天下に勇者ありといわれた呂布なるぞ」
覡がだみ声をあげた。何かに取り憑かれたようにからりと声音が変わっていた。
「呂布? ああ、あれは可愛がってくれた主君を殺した男だ」
孟徳が顔をしかめた。節操がない男を孟徳は嫌った。
続く