丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十三

           丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十三
 
 呂布并州(へいしゅう)五原郡九原県(内モンゴル包頭西)の出で、字は奉先といった。
 漢の五原郡は秦の始皇帝の九原郡で、匈奴討伐軍の駐屯地であった。九原県を守るように長城がのびている。戦国趙の長城だ。その長城の彼方に、陰山沿いにとぎれることなく長城が続く。秦の長城だ。秦の長城の関門をでると漢の地でも匈奴の地でもない土地が広がっていて、匈奴や漢の斥候や巡回している。遭遇すれば小競り合いは避けられない。危急のときのための小さな寨があるそうな。この土地を北に向かうと匈奴の国である。南側から望む陰山はおだやかだが、北側はずいぶん険しくて山越えは辛い。山越えが容易なのが九原の関門だ。この関門を破って匈奴が押し寄せる。長城に狼煙(のろし)があがれば女子供といえども弓を執る土地柄だ。
 この頃の侵略者は主に匈奴である。匈奴を討ちに遠征した高祖が白登の岡(山西省大同)で匈奴の冒頓禅于(ぼくとつぜんう)に囲まれて窮地に陥り、陳平の奇計で危地を脱したことはあまりにも有名で、匈奴は秦から漢へと変わる頃に最盛期に入った。このとき高祖は冒頓禅于と和親して公主を禅于の妻にすることや毎年、莫大な貢ぎ物を贈ることを約束した。漢朝は秘して口外しないが、このとき高祖はいうに言えぬ辱めを受けたといわれる。貢ぎ物の気前の良さから推し量れば、匈奴の属国のように受け取られなくもない。本当は税ではなかったかしら?
 時には盟約に背いて塞(とりで)を犯したが、武帝に撃たれて衰微していく。そのうちに内乱がおこりますます衰えた。やがて内乱により南北に分かれてしまう。漢の保護を求め、漢の土地に住むことを許された匈奴南匈奴と呼ばれ、漠北に残っていた匈奴北匈奴と呼ばれた。南匈奴并州に住んでいた。
 
 呂布はこのような土地で、馬をおのれの手足のように操り草原を駆けめぐった。飛ぶ鳥を射たり、獣を追って騎射に長じた。五原に漢の許しを得て匈奴が住んだこともある。地に耳をあてて蹄(ひづめ)の音を聞いて敵の遠近を測り、土煙や馬糞の数を見て兵馬の多少をしる匈奴の兵法まで身につけたらしい。九原の暮らしのすべてが呂布の武芸を磨く師であった。そのうえにまたとない力持ちでもあったから、呂布の勇猛は五原郡に鳴り響いた。県の推挙をうけ并州の府寺(やくしょ)に配属された。
 のちに、并州刺史の丁原が騎都尉の官を拝命して河内(かだい)に赴くとき、呂布をともない主簿に抜擢した。主簿という官はどの府寺にもあって、帳簿や文書を管理する。下役に掾や史がいた。辺境育ちの武張ったこの男は、どこぞで学問を学び、文書にも明るかったとみえるが、良家でも、衣冠の家の子でもない呂布を抜擢したのは、苦労人である丁原のことである、この若者に昔日のおのれを重ねたからだろう。
 丁原は布を信頼し目をかけた。
 霊帝崩御すると大将軍何進丁原を召した。原は兵士を率いて都にのぼり、執金吾という栄誉ある官を拝命した。
 そのうちに何進が殺され、董卓が雒陽に入城する。董卓の兵はわずか三千である。後続部隊などなかった。都を制圧するにははなはだ心もとない。そこで丁原の兵に目をつけた。呂布が原の親任を得ているのを見てとるや、布をたらしこんで原を殺せと命じた。布は原を斬る。その功で布は騎都尉を拝命した。
 布という男、総身に野心をたぎらせているのではなかろうか。何進が殺されたとき出世の道が断たれたと思ったに違いない。匈奴は強い者を尊ぶ。力は善である。それで主を殺してまで董卓に靡いたのか。
 しかも布という男、よほど人好きがするのか董卓に気に入られ、父子の契りまで結んだというではないか。卓の行くところ必ず布が付き添っているらしい。
 
 離宮の一つである畢圭苑にいた董卓は、呂布に命じて雒陽の帝陵や侯、王たちの塚を暴かせた。副葬の財物が目当てである。
 天子の亡骸は丹黄色の絹で十二重にくるまれ、そのうえに玉柙という玉でできた鎧のような葬具をつける。この葬具のうえから衣を着せるのである。
 玉柙という葬具は、方形に加工された玉と玉を金糸でつづり合わせて作られる。腰から下は鎧のこざねのように加工した玉をやはり金糸でつづり合わせてある。皇帝は金糸でつづりあわせた玉柙金鏤(ぎょくこうきんる)で、諸侯や王、公主などはその功や血筋の親疎などによって銀糸でつづる玉柙銀鏤、銅糸でつづる玉柙銅鏤などが下賜された。
 この金、銀に董卓は目をつけた。玉片をいちいちほどくのは手間がかかるので亡骸を焼いて金銀を溶かした。
 「なんと酷いことを……」
 居合わせた者たちが絶句した。
 美少女がどんと太鼓を打った。
 「われは天に昇りし魂なるぞ。黄泉に眠るわが魄はいずこぞ。わが珠の飯はいずこ」
 巫(おんなみこ)が身をくねらせる。
「なんじが魄は灰となりて風に消ゆ。なんじの住処は踏み荒らされ、なんじは永久に飢え、なんじの魂、帰すべきところなし」
 覡(おとこみこ)が野をわたる風のように声を落とす。
「魄散りて魂帰すところなし。魂彷徨いていずくに行かん」
 巫がすすり泣く。
 古来より滅びぬ国と暴かれぬ墓はないと言われ、美しい屍体が汚されたなど墓荒らしの恐ろしい話には事欠かない。が、漢朝をたすけると公言しておきながら天子の陵を暴いて冒涜するとは。口とは裏腹に卓の本性が暴かれてしまった。
 
続く