丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十四

             丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十四
 
 「まるで焚刑じゃぞ。天子になんの罪があって焚刑に処すのじゃ」
 孟徳が拳をふるわす。
「われらは泰山に参らねばならぬぞ。天の子なるいと尊いお方にくわえられしこの恥辱を天に訴え、よりどころを無くした魂を慰めねばならぬのじゃ」
 覡(おとこみこ)が天を指さし、袖で顔を覆った。
 巫(おんなみこ)は神懸かりしたのか、ぱっと両手を広げて空を跳ぶ。束ねた髷(まげ)が崩れ、鎌首をもたげた蛇のように躍る。
「死ね! 死ね! われに仇なす者はみな死ね!」
 巫は野太い男の声を発し、眉をつり上げていた。跳んではくるくると舞うようにあたりをさまよい、ぎらつく目を空にはわせて印を切る。太鼓の音は狂わしいばかりに鳴り響く。
董卓よ、汝の胸は猜疑と不安に満ち、汝の目は怒れる亡鬼をみる。汝を殺すのは刃、汝の屍は万人に踏まれようぞ。ああーっ」
 巫はぱたりと地に倒れ伏す。苦しそうに息を荒げて瘧(おこり)のように体を震わせている。その背で黒髪が無数の蛇のように鎌首をもたげていた。
「鬼神よ、お帰りあれ。このものは巫、巫に罪はなし。われらに罪はなし。連れて行かれるな。罪は董卓呂布二人にあり。われらは泰山にて魂鎮めの祀りを執り行うとするもの。許されよ、われらが罪を許されよ」
 覡が叩頭して許しを請う。
「水じゃ。どなたか水を下さらぬか」
 弱々しく振り向いた。
 卞娘が腰に下げた竹筒を差し出す。覡は水を口にふくみ巫の顔にぷっと吹きかけた。巫の息づかいがしだいに穏やかになり、薄目をあけてあたりを見回す。
「おお、蘇ったか、よかった、よかった。魂を抜かれるとこじゃったぞ」
 覡は心底、ほっとしたように額の汗を拳でぬぐう。 
「天知る、地知る、我が身知るという。そのおののきよう尋常でない。さてはこやつら、呂布のために呪いをしたであろう。斬って捨ててやろう」
 曹洪が巫覡(ふげき)を睨みつけ、剣を抜いた。巫覡どもは顔色を変えて後ずさりする。
「子廉殿、許しておあげなさいませ」
 卞娘が洪の前に跪(ひざまづ)く。なにをまたと、わたしは半ば呆れて卞娘を見守る。
「止めるな。子廉は漢(おとこ)じゃ、妖言をなす徒は……」
「好きこのんで呪いをしたわけではございますまい。弱い者は強い者に無理強いされると従うまでのこと。そうして命をつなぐのでございますよ」
「……」
「弱いわたしにはよくわかりますの。呂布とて好きこのんで主君を見捨てたわけでもありますまい。野心はともかく、呂布の故郷は匈奴が居座っていますでしょ。帰るところなどありゃしませぬ。呂布の稼ぎをあてにする家族や係累が、空きっ腹をかかえてぴいぴい鳴けば、義理も人情もどこぞに捨てたくなりましょうぞ」
「そうか。それでおまえはわしを追いかけてきたのか?」
 孟徳が片頬を歪めて嗤う。
「わが君よ、わたしをそんな目で見ておいでか?」
 顔を赤らめ、卞娘が袖で顔を覆った。
 側女(そばめ)は正室の敵、にもかかわらず、わたしは卞娘を哀れに思った。
「卞のわが君を思う気持ちに打算などございませぬ」
 思わずわたしは口走ってしまった。
 孟徳と卞娘が呆気にとられたようにわたしを見た。卞娘の目が赤い、わたしは目を背けた。
 洪は気勢をそがれたらしく、剣を鞘に収めた。
 
 曹洪は孟徳の従弟(いとこ)で、字を子廉という。孟徳が旗揚げしたという噂を聞いて駆けつけたのだ。洪の伯父の曹鼎(そうてい)が尚書令になったとき、洪を荊州江夏郡の蘄春(きしゅん)の令(長官)に推薦したので、令をつとめた。曹仁が決して粗野な野人だったわけではないが、洪は物腰に品があって仁よりも大人びた感じがした。
 とはいうものの年若い頃の洪は、孟徳や夏侯の息子たちと徒党を組んで悪事をはたらいたらしい。孟徳たちの口が堅くて、露ほどにも漏らさぬため、わたしの憶測でしかないかもしれない。
 
 むかし、譙城(しょうじょう)で結婚式がとりおこなわれている家に無法者が乱入し、花嫁が略奪された事があった。孟徳の仕業という噂がとんだ。
 「あれはわが君の仕業でございましょ」
 さぐりをいれてみたことがある。
「たわけ者、わしが?たわけ者。あれはたしか……娘に懸想したどこぞのならず者の仕業じゃ」
 他人事のように平然としていた。
 孟徳は罪を犯して捕吏に囲まれたことがある。どのような罪なのか誰もが口を閉ざして語らぬ。おそらくこの新婦略奪で訴えられたのだと思う。孟徳が獄に繋がれようとしたとき、遊び仲間の夏侯氏の息子が自首した。孟徳の身代わりに獄に繋がれたが重罪だ。孟徳は八方手を尽くして彼を釈放させた。このことで孟徳は夏侯氏の息子に返しても返しきれない借りができた。その息子というのは夏侯淵、字は妙才だ。淵は夏侯惇の親族で、惇よりも年下である。淵の妻は孟徳の従妹で、淵の息子の妻は孟徳の弟の娘である。昔日の悪童の絆は而立(じりつ)の歳をすぎてもまだ彼らを結びつけていたのだ。
 
 曹洪の家は曹氏一門のなかでも屈指の富豪で、私兵を千人も養っていたからなんとも心強い。
「おい。巫覡どもよ、董卓呂布はよい死に方をせぬと触れ回れ」
 孟徳がにやりと笑った。
「なるほど。それもよい」
 洪がにいっと笑みを顔いっぱいひろげる。
 悪党、昔日の悪事のたくらみもこのようになされたのか。わたしは孟徳と洪の顔にちらちらと視線をはわせた。
 孟徳という男は日ごとにわたしの見知らぬ孟徳になっていく。わたしは悪い夢のなかを彷徨うているのだろうか?
 
 
続く