丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十五

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十五
 
 「閣下。よろしゅうございますか?」
 聞き慣れた声とともに博労の李が姿を現した。
 博労はいつの間にか孟徳の耳目(じもく)を統べていた。天性聡い男で、長(おさ)になると言葉つきまであか抜けてきた。耳目、つまり間者であるが、胡三明の兄妹は美しすぎて俳優(わざおぎ)や歌妓、巫覡(ふげき)にはぴったりだが、農夫には化けにくい。博労は農夫や商人なんでもござれだ。都での牧夫あがりの言葉遣いが嘘のように、長として品まで備わってきた。「あれはたいした拾いものだな」と、孟徳を手放しで喜んでいる。言葉遣いについては、陰でそれなりに努力したらしいが、黄巾の賊だったとき、身分が高くて官吏のまねごとなどしていたのではなかろうか? 荒くれた牧夫あがりとは到底、思えぬ言葉つきだ。
 「おお、かまわぬぞ」
 地図から顔をあげた孟徳は、眉間に深い皺をきざんで近寄りがたい剣呑な顔をしていた。思わず博労が立ち止まった。
「うん? 話があるのではないか、どうした?」
「お顔の色がすぐれませぬぞ、またにいたしましょう」
「ああ、なんでもないぞ」
 孟徳は照れたように顎髭をなでて笑った。
 孟徳は焦れていたのだ。董卓を恐れて戦をせぬ義兵に腹を立てていたのだ。
劉表荊州(けいしゅう)に入ったそうです」
「ちっ、ちっ、ちっ」
 孟徳が舌打ちした。
「その知らせ、だれから得たのじゃ?」
 射すくめるような目で博労を見据えた。
「糞ったれ。袁術の大間抜け! それでもおまえは男かよ」
 曹洪董卓の小旗を乱暴に地図に向かって投げた。
「あの巫覡どもです。刺史であった王荊州孫堅に殺されてしもうて、劉表が刺史を拝命したので、その一行について行けば安全と思い、ついて行ったのですな。行く先々で戦ですわい。矢石をかいくぐって逃げまどううちに散り散りばらばら、見失のうてしもうて、土地の者に聞くと数日前に劉表荊州に入ってしもうたということじゃったそうです」
「大失態だぞ、公路め」
 洪が頭を抱え込んだ。
「閣下、袁公路殿は評判が芳しくございません」
「ほう。どのようにじゃ?」
 孟徳が膝をのりだす。
荊州に放った耳目からおっつけ知らせが届きましょうぞ。公路殿の兵には規律がございませぬ。至るところで略奪をほしいままにする。公路殿がみずから指揮して略奪するそうですな」
 博労は一礼して下がっていったが、目がぬれたように光っていた。
 辛い事を思い出したのではあるまいか? 不惑をすぎた男の意外な一面を垣間見てわたしはうろたえた。うろたえながらも博労の半生に思いをはせた。この男、いつか孟徳を見捨てるのであるまいか? ふと、疑念が頭をもたげる。黄巾の乱とは一体何だったのだろう……妖賊が天下を覆そうとした乱だと人はいうが……それだけではあるまい……ああ、わたしは何を口にしようとしていたのだろう。
  
 「子廉(洪)よ。嘆くのは早いぜ」
 孟徳が洪の背中をぽんと叩いた。洪が暗い顔をあげる。
「そんな顔するな。劉表荊州に入ったからとて荊州董卓のものになったわけじゃねぇぞ」
「そうかな?」
 洪が片頬を歪めて嗤った。
「なんじゃ、その顔は? 話す気が失せるわい」
「兄貴、悪かった。拗ねてねぇで話してくれ」
「ふん。聞いて損はねぇ」
「耳の穴かっぽじって聞こうじゃねえか」
「よし。そもそも劉表ってやつはのう、董卓に毒殺された太后の兄である何進の抜擢を受けて、大将軍の府(やくしょ)の掾(えん)を拝命した。禄高はいかほどか知っておろう」
「どの府でも掾の員数は三十人前後だ、禄高は三百石から四百石くらいだろうよ。よい官職だぞ」
「うむ。わしはそのころ二千石だ。表は身の丈八尺、見栄えがして目立ったのう。ありゃ景帝の子である魯恭王の後裔だぜ」
「ふーん。漢朝を再興した光武帝の血筋とはずいぶん遠い。疎族じゃのう」
「そこだ、そこよ。漢朝およそ四百年になんなんとす。宗室の血筋は地に満ちあふれておる。じゃがの、栄華は一握りの王家に限られ、陋巷(ろうこう)に住まい、体面などかまっておられぬ劉氏は星の数ほどおるわ」
「うむ。おるなぁ」
「空きっ腹抱えても血の重さゆえに気位は高い。壮大な夢を見るものじゃ。乱世とはいえ、掾から刺史じゃぞ。刺石は二千石、しかも余禄が多いときている。荊州に入ったが最後、董卓の命に従うものか。自立する」
 まるで自分が自立したかのように孟徳は勢いよくぱっと袖を払った。
 
 続く