丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十六

        丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  四十六
 
 「厄介じゃのう、敵が増えた」
 洪が口をとがらせた。
「おいおい。子廉よ、いつもの頭の冴えはどうした?」
 孟徳がにたっと笑う。
 この人は困ったときでも笑うのだから……。追いつめられると、稲妻のように閃くらしい。
「のう、子廉。袁術荊州を制圧したら厄介なのじゃよ」
「厄介? 袁術は盟友ではないか?」
「わからぬか?」
「兄貴、じれってぇ。さっさと言ってくれ」 
「術は任侠だぜ。徒党を組んで粋がっていた。澄ましているが、一皮むけばどんな顔が現れるか知れたものじゃねぇ。野心の塊よ」
「それはねぇだろ。ああ、任侠だよ。無頼の徒をひきつれて都をのし歩いてた。いつぞやは姦夫姦婦が丸裸でよ、市の馬つなぎの杭に縛りつけられ晒し者にされたが、ありゃ術がしでかしたという噂が飛んだ。じゃが、親兄弟の仇を討たねばならぬ身じゃ。野心を吐露する暇などなかろう」
「ならば、なにゆえに一日もはやく仇を討たぬ」
「……董卓が怖い……死にたくないのさ」
「ふん。……他言は無用じゃぞ」
 あたりを一瞥すると孟徳は膝をのりだし声を落とした。
「『漢に代わらんとする者は當塗高(とうとこう)』と讖言(よげん)ある」
「ああ、奇妙な流言飛語が囁かれている。あれは漢に代わらんとする者は當(まさ)に塗(みち)高かからんとすと読み解くのか? 謎めいておる」
 洪は腕を組んで目を閉じた。
「わしが太学で学んでいた頃のことじゃ。術の家に出入りしていた男がおった」
「兄貴のことかい」
「わしではない。任侠の手合いだ。そ奴、夜中に酔いがさめて用をたしにいった。ふと見ると、術の部屋に明かりが灯っていた。この夜更けまで学問かと覗いてみると、突然に馬鹿笑いが響いた。『漢に代わらんするものは當塗高』と白馬寺の沙門が経を読むように唱えては笑うのじゃ」
「なんだか鬼気迫る光景じゃ」
「そして、わが名はすでに讖言にあり、公路という字(あざな)の路も、術という名の行くも讖言と符合すると喜んでいたのじゃと。不気味で、その男は音も立てずに遠ざかると、それいらいなんとなく術とは疎遠になったそうじゃ」
「ほう……四代にわたって三公を出した家が」
「そのうえに、袁氏の祖先は陳の大夫(たいふ)の轅濤塗(えんとうと)だ」
「けっ。怪しいものだぜ。その家の奴隷までが轅氏のものだからな。そのような遠い昔のことなぞもちだすな」
「そうさ、漢の高祖の父母ですら劉翁(りゅうじいさん)劉媼(りゅうばあさん)としか伝わらぬ。しかもこの轅濤塗はいにしえの帝舜(しゅん)の末裔だというぜ」
 孟徳は鼻に皺をよせて嗤った。
 
 宦官の威光で中央に躍り出た曹氏には面白くない。雲の上の人が袁術袁紹である。なにを間違ってか、悪逆非道の董卓の家は良家である。漢の制度では三代にわたって罪人を出していない家が良家と決められていた。義任心にかられて政道に背いたり、才気や富を妬まれていわれのない罪におとされる者も多かったから、これは厳しい。孟徳も、夏侯淵が身代わりになってくれなけば孝廉にはなれなかった。
続く