丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十七

       丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十七
 軽く唸ると洪(子廉)は額に皺を寄せた。唸ったわりには冷静な目を孟徳にむけた。探るような洪の視線を顔の筋ひとつ動かさずに孟徳ははじき返す。
 時として、曹家の人々は心とは裏腹な言動をとるので油断ならない。決してそれは、人を罠にかけようとして企んでのことではない。いわば百戯の軽業のようなものだ。空高く張り渡された綱のうえで、軽業の者たちはこれみよがしに体を左右にかたむけ、いまにも落ちそうな気配をみせる。あっ、落ちる。息を呑んだ瞬間、軽業の体はしなやかに撓んで均衡を保っている。そのように孟徳のなかに棲むもう一人のもう徳が、のめりこんで均衡を失う孟徳をぐいとつかんで引きずり戻す。孟徳ほど心を熱くたぎらせる男を見たこともなければ、孟徳ほど冷静な男を見たこともない。天性、孟徳という男はそういう男なのだ。冷酷といえば冷酷である。非情といえば非情である。天の高みにも等しいおのれが信じる「何か」に向かって疾駆する熱い男でもある。そこが曹氏一族や夏侯氏たちを惹きつけるのだろう。
 「兄貴よ」
「なんじゃ。子廉(洪)」
「ほかでもない。木、火、土、金、水の五行でいうと、火徳の次に興るのは土徳じゃ。舜は土徳をもって天下を治めた。されば、漢に代わる者は土徳の袁術だと言いたいわけか?」
「ふっふっふ。言いたいだろうよ。言われたかろうよ、なぁ。秦は木徳を受けて天下に臨んだ。木徳衰え火徳の漢が興った。火徳衰えた今、土徳が興ると言われておる。袁術は土徳を受けた者と言われたくてうずうずとておるらしいぞ」
 孟徳がふんと鼻先で笑う。
「われらが義軍を起こしたのは漢朝の奸臣賊子を伐つためだ。乱れた秩序を取り戻すためではないか」
 洪が眉を跳ね上げた。
「しかり。兵とはもともと暴である。凶事である。大義なき兵は暴そのものじゃ。弔民伐罪(ちょうみんばつざい)を忘れてはならぬ。周の武王は悪逆非道の殷の紂王(ちゅうおう)を伐ち、虐げられた殷の民に謝罪しねぎらわれた。大義なき兵は天が許さぬ、地が許さぬ、民が許さぬ、亡ぶのみぞ」
 心底からそう信じているらしい、孟徳の口調は熱気を帯びていた。
 
続く