丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十八

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十八
 
 そうそう、弔民伐罪といえば子脩は子供たちに「千字文」を教えている。つい先ごろ、そのなかの『弔民伐罪』のくだりを子供たちに暗誦させていたところだ。大きな声で「周の武王は暴虐で名高い殷の紂王を伐って、虐げられた殷の民に謝罪されいたわった。弔民伐罪とは暴虐の君を伐ち、民を慰問することである」と説いていた。驚いたことに、そのなかに幼い丕を抱いた卞娘がいたのである。
 「おまえ、何をしているの?」
 わたしの声に驚いて卞が顔をあげた。
「奥方さま……」
 あわてた拍子に卞娘の膝から盆が滑り落ちて、灰がこぼれた。
「おやまあ。おまえ、文字を習っていたのかい?」
「は、はい」
 卞娘は顔を赤らめながらこぼれた灰を盆に拾いもどす。灰の上で手習いをしていたらしい。
「筆も墨も木の札も遠慮なく使いなさい。曹家じゃ、側仕えに灰で手習いさせる言われちゃわたしの面目がたちませんからね」
「ありがとうございます」
 卞娘は灰に汚れた顔を和ませた。
「これ。顔を拭いなさい。灰が鼻の頭についておる」
「いいえ。このままでよいのです」
 いかにも悔しいといった様子で卞娘は唇をかんだ。
「よい? おまえ、いつも髪を撫でつけ杏の油で顔を磨いておったではないか」
「妓楼の家の生まれが悔しゅうてなりませぬ。やれ、舞えだの歌えだの、諸将たちはわが君の許しも得ずにわたしを宴席にさらって行きます」
 卞娘はぽろりと涙を流した。
「ああ、それでわが君はおまえに子守ばかりさせるのか」
 可笑しくなってわたしは声をたてて笑った。恨めしそうに卞娘は横目でわたしを睨んだ。
「諸将がわたしをくれと頼んだら、わが君はわたしを与えるでしようか?」
「たわけ者。わが君は、どこまでもついて来るものに惨いことをするお方ではない。わたしだって宴席で酌をさせられているのですよ。わが君がよい顔をできるのなら、おまえも歌を惜しんではならぬ」
 一戦を交えていないのだから勝利の美酒でもあるまい、武将たちは来る日も来る日も酒宴に興じていた。そこで諸将の妻女たちは宴席にはべって酌をする。世が世なら考えられぬ所業である。
 それにしても卞娘は少し変わった女である。まじまじとわたしは卞娘をみた。美しかった柳の眉が、伸び放題に伸びて太く跳ね上がっていた。そのせいか丈夫(ますらお)がそこにいるように思えた。女の姿をした丈夫、そう、心が強(こわ)いのだ、この女は。
 
 「兵は暴でござるか。なるほど」
 夏侯惇が頷く。
「元讓(惇)よ、兵には大義がなければならぬ」
「なるほど。大義こそは何人もひれ伏す唯一のものじゃわい」
 洪がにんまり笑って惇に目配せする。
「暴なるがゆえに袁術荊州を取り損ねたのじゃな」
 惇が膝を打って笑った。
「そうじゃよ。大義こそが天下を支配するのだ。兵には大義がなくてはならぬ。陳留の孝廉の衞子許(玆)を見よ。わしは陳留にきてはじめて子許と出会うたのじゃ」
 えっと一同は顔を見合わせた。子許は家財をなげうって孟徳の挙兵をたすけた男だ。なんと、旧知ではなく初対面だったとは。
 続く