丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十九

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 四十九
 
 「なんと! 知己ではなかったとな……」
 夏侯惇が絶句した。
 「思慮深い子許が、のう」
 曹洪が首をかしげた。
 「子許はわしより年下じゃが軽挙妄動する男ではない。何大将軍や三公、董卓のお召しにも応じなかった。仕官をことわってじっと天下の動静をみておった」
 衞茲(えいし)の字を口にするとき、孟徳の背筋がぴんと伸びる。子許の大恩を終世、孟徳は忘れなかったであろう。
 もしも子許に出会わなかったら孟徳はどうしていただろうと考えることがある。張邈(ちょうばく)を説得して義兵を挙げたに違いない。騒乱で曹氏が散り散りとなった今、部曲(ぶきょく。私兵のこと)ももたぬ武将になにができる。張邈が孟徳に与える兵はせいぜい数百だろう、これで董卓と戦うなど狂気の沙汰だ。蟷螂(とうろう)が鎌を振り上げて車輪に向かってくるようなものだ。ならば道は一つ、盗賊になって無頼の徒を集めて義兵に仕立てる……いずれにしても諸将に先駆けて初名乗りをあげることは叶わなかったはずだ。星々に先駆けて誇らしげに輝く一番星になれなかったはずである。
 
 「子許はのう、いわばわしに出会う日を待ち望んでいたのじゃ」
「兄貴の名を慕うていたのか?」
 うれしそうに身を乗り出す洪を孟徳は面白そうに一瞥した。
「なんの、なんの。子許は宿駅に屯して行きかう者たちをじっと眺めていたおった。名はあっても実がともなう者は少ない。おのれの眼(まなこ)でとくとみてやろうと思うたのじゃな」
「ほう、宿駅でか。名士がまた軽々しい真似を」
 あきれたと言わんばかりの惇の顔だ。
「いや、元譲(惇)よ。大望あるものは目的のためになら諸々を耐え忍ぶぞ」
 洪がにやりとした。
「そこへわしが現れた。わしの親友の張孟卓(邈)が陳留太守じゃ。宿駅から太守のもとへ使いを走らせた。視線を感じたのじゃよ。視線を手繰り寄せるとそこに男がいた、きらきら目を光らせた男がのう。目と目があうと軽く一礼しおった」
「それが子許だな」
 洪の言葉に孟徳が頷く。
「そうさ。物言いたげについて来よる。三度目に目が合ったとき、わしは列を離れてその男と立ち話をした。話してみるとこれが人物じゃよ、理路整然としておって奥が深い。すぐさま意気投合したぞ。子許の家をしげしげと訪ねて天下国家を論じたわい。通うのが面倒になって子許の家に身を寄せた」
「まったく一途な男は博打うちとかわらぬのう、子許は財産をすっくりなげうったのだから」
 信じられないといった様子で惇がかぶりを振った。
「世が世じゃ。財などなんになろう。盗賊に襲われたら財はおろか命まで失うではないか。子許は熟慮のうえ賢い選択をしたまでのこと」
 孟徳の言葉に男たちは頷く。
「あまりにも突然のことゆえに、家人の手前、子許とわしは旧知だととりつくろうた」
「なるほど」
 惇はわたしをちらっと盗み見した。
 わたしは孟徳がすることを一度たりとも反対したことはない。反対しても耳を貸すような男ではなかったから。
 なんという男たちだろう、孟徳も子許も。曹洪大望といったが、義兵をあげて功を建てると富と栄誉が待っている。太平の世にはとうてい手に届かぬ富貴が、乱世にあっては一朝にして掴むことができるのだ。
 
 続く