丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十二
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十二
写真は無錫三国城の魏の軍隊
グーグルMapより。
曹操の軍のイメージとして引用
行軍の鼓が軽やかに鳴り渡る。
孟徳が出征する。行奮武将軍(こうふんぶしょうぐん)曹孟徳の晴れ姿である。
見送りの者たちが兵士について歩き出した。わたしも次の宿駅まで見送るために歩いた。
「武運を祈りますぞっ」
「必ずや凱旋なされいっ」
「わしらも足下の後に続きますぞっ」
「将軍よ。体を厭いなされよっ」
で見送る武将たちが口々に叫ぶ。孟徳ははなむけの言葉に左手を軽くあげて応え、笑顔で頷く。そのたびに左腕につけた騎馬用の丸い楯が夏の日差しに光った。まるで諸将たちの思惑を、孟徳に代わって楯が弾き返しているような錯覚を覚えた。 「こやつら、どれもこれも言葉とは裏腹に、わしの惨敗を望んでおるわ」
きっと孟徳は、心の中で苦笑いしていたに違いない。
「あやつら、わが家の子供にも劣る」
あやつらとは戦意なき諸将のことで、わが家の子供とは曹休のことである。そういって孟徳は身うちの前で怒りを吐露した。
わたしの目から見ても諸将には歯がゆいものを感じた。正義を行おうと、子供ですら老母をいたわりながら千里を遠しとせずに義旗に馳せ参じたのだ。山も川も盗賊だらけのなかを干し飯(いい)をくらい、草の根をかじってやってきたのである。いい歳をした諸将どもは、口ばかり動かすが体は動かそうとしない。そのくせ、いかに己を高く売りつけようかと策ばかり弄している。志の卑しさは例えようがない。
「義旗を口実に、保身と出世しか眼中にないのう。やれ名門じゃ、名士じゃとぬかすが、真の男は一握りに過ぎん。見ていろ。わしはこやつらを今に篩(ふるい)にかけてやる」
孟徳は息巻いた。諸将どもは風を読むのに腐心していた。
息巻いたところでしかたがない。
「このままで良いではないか? あの男はなぜ戦いたがるのか?」
これが義旗にうずまく風である。それゆえに孟徳のような男は迷惑このうえもなかったのだ。
義旗の盟主である袁紹ですらこんなことを吹聴していたのである。孟徳は異を唱えた。
「王美人が産んだあの天子、まことに霊帝のお胤(たね)かのう?」
風は山東のみで自立しょうと機運を孕んでいた。これにも孟徳は異を唱えたから、うるさい男と思われていた。孟徳ときたら、それを苦にするどころかますます生き生きとしてきて、わたしの目にはまぶしく映じたものである。
「暴乱を滅ぼさんと義兵を挙げ大勢が集った。諸君。なにを惑いためらうのか! さきに董卓は天子の威を借りて雒陽に居座り、山東に義兵起こるを知るや、東に兵を進めて天下をものにせんとす。天許さざる無道をもっての行いといえども、憂うべき事態である。今、雒陽宮を焼き払い、天子を脅して長安へ移してしまった。この暴挙に海内(こくない)は震動し、人はいずれに従うかと帰すべきところを迷うておる。これぞ天が与えたもうた時だ。董卓を滅ぼす好機である。一戦、しこうして天下を定めることができる」
諸将を集めてとうとうと説いたのである。それでもまだ足りぬと、これをしたためて河内の袁紹のもとに送った。
※范曄(はんよう)の『後漢書』帝紀は曹操の出征を一年遅らせていますが、『資治通鑑』でははじめて義兵をあげた翌年になっています。曹操のような気が短い男が一年も飼殺しのような状況に甘んじるとは思えないのと、食糧事情から、『資治通鑑』に従いました。
続く(明日更新)