丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十四

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十四
 
 孟徳の後続に衞玆(えいし)の軍を充てたから、いかつい外見にもかかわらず、張邈(ばく)の配慮は細やかに行き届いていた。
 孟徳と意気投合して真っ先に義兵をあげた衞玆である、あの御仁なら孟徳の足を引っ張りはしない、手加減しないで戦うに違いない。張邈は味なことをしてのけた。
 大恩ある衞玆の出征を、わたしは城外まで見送った。
 輜重(しちょう)をやり過ごしたわたしは、思わずあっと声をたてた。男のなりをしていたが見間違うはずはない、あれは衞玆の妻に違いない。
 「衞の奥方さま。衞の奥方さま」
 衞玆の妻を追ってわたしは駆けだした。
 「まあ……。曹の奥方さま」
 衞玆の妻の上気した丸い顔がほころびる。
 「その御様子、ついて行かれますの?」
 目を丸くして問いかけるわたしに、奥方は顔をあかくしてこくんと頷いた。
 「あの人、あのような気性でございましょ、放っておけませんの」
 言い訳するように衞玆の妻はますます顔を赤くした。
 「まっすぐなご気性ゆえにご心配なさるのですね」
「ええ、あの人、手加減というものを知りません」
「……」
「曹の奥方さまは留守居でございますか?」
「ええ、ええ」
 なんだか申し訳なくて、今度はわたしの顔が赤くなる。
 孟徳から後のことを託されたわたしであるが、初陣の子脩を思うと心がざわついて後を追いたい、ひたすらに後を追いたかった。孟徳は「もしものときは家族を守って舅殿の所に行け」と、わたしを張邈に預けたのである。
 「約束を破ればこうだ」 
 剣が一閃したかと思うとわたしの喉元に突きつけた。
「わしの気性を知っておろう」
「乱暴な、あまりの仕打ちでございましょ」
「こうでもしないとおまえは言うことをきかぬ」
 かちかち歯を鳴らし続けるわたしをじろりと睨むと、孟徳はそっぽを向いてしまった。隠しても、孟徳の背中がさざ波のように揺れていたから、声を殺して笑っていたに違いない。
 「一緒に逃げて欲しかった。戦などない国に、いっそわたしを攫(さら)ってくれればよいものを……」
 思い出から引き戻されたわたしは衞玆の妻を見上げた。
「なにかおっしゃいまして?」
「いいえ」
 いっそわたしを攫って……そのように聞こえたが、気のせいかしら? 衞玆の妻は澄まして一礼すると馬を急がせた。
 
 早馬が来て、孟徳が董卓の武将と戦っていると告げた。
 
続く。
 
(眠いので途中できります。続きは今晩です)