丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十五

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十五
 
 滎陽(けいよう)の汴水(べんすい)で、孟徳は董卓の武将に遭遇したのである。そこからは成皋関(せいこうかん)まで二、三日行程だというのに惜しいことである。
 「はじまったか。して、董卓の武将というのは何奴じゃ」
 孟徳ならやってくれるぞと、目を輝かせて張邈(ちょうばく)が身を乗り出した。わたしは全身を耳にして使者の報告を聞く。
「玄菟(げんと)出身の中郎将、徐栄でございます」
「なんと徐栄ときたか、こりゃやっかいじゃぞ。ありゃ、名うての猛者じゃ」
 邈は眉根を寄せてやたらと顎鬚をいじくりまわした。
 
  滎陽(河南省)は京畿をつかさどる司隷校尉支配下に置かれていて、北へと進めば黄河に出た。この黄河の北岸は、袁紹がこの頃拠っていた司隷校尉部の河内郡である。
 滎陽の近辺で黄河はたびたび氾濫を起こした。前漢のとき、武帝が大規模な堤の改修工事を行っているし、後漢になっても二度にわたってやはり大規模な治水工事をおこなっている。ここから黄河下流に向かっておよそ千里にわたって堅固な石積みの堤を築いたものである。堤の高さは一丈もあったが、所によっては高さは五丈にもなり、まるで城壁である。それゆえに金城湯池のように堅固な堤の意味をこめて金堤(きんてい)と呼ばれていた。
 黄河の勢いをそらすために、滎陽の東北から黄河の水を東南に引く水路をうがった。この水路は滎陽の東北あたりを汴水あるいは汴渠(べんきょ)と呼んでいる。実に長大な人工の川で絵図では墨縄で計ったにまっすぐに伸びている。この水路は総じて鴻溝水(こうこうすい)というが、中ほどからは官渡水と呼びならわされていた。
 
 徐栄が玄菟の出と知ってわたしは容易ならぬものを感じた。
 玄菟(遼寧省)は幽州にある東の辺境で、この郡は高句麗と隣り合わせていたし、北は鮮卑(せんぴ)や烏丸(うがん)の騎馬民族の居住地に接していた。たえず異民族の襲撃に見舞われる土地で生まれ育った者なら、さぞ豪勇だろう。文官あがりの武将とは力量の差がありすぎる。
 
 次に駆けつけた早馬は孟徳の敗戦を伝えた。
 「なに、敗れたとな」
 張邈はぎろりと眼を剥いた。軍を監督する目付役の使者を詰問してもいたしかたのないことだが、総崩れというのが気に食わぬ。つい口調が厳しくなった。わたしはぶるっと震えた。
 「して、曹孟徳は無事か?」
 張邈は悲痛な声をあげた。
「激しい戦いでございました……本陣に立てる旗印が折れて地に踏みにじられて破れておりました」
 使者は申し訳なさそうに俯いたまま顔をあげない。
「軍門にいつも立てる旗が。あれを抜かれたら敗北の印じゃから命をかけて守る旗が……」
 悲しげに張邈が首をふった。
 
 孟徳は汴水まで来て董卓の武将、徐栄の軍に遭遇した。偵察にだした遊軍が徐栄に押し戻されるように舞い戻ってきた。いや、徐栄の軍を引き連れてきたといってよいほどの勢いだった。
 「こりゃまずい。陣立てが整わぬわい」
 いったん退いて、汴水を背に布陣せよと命じた。鴻溝水が汴水と呼ばれるあたりは黄河に近いため、その堤は城壁のように高く堅固である。これをこれを城塞にみたてて奇兵を繰り出して、敵をおおいに翻弄するつもりだった。
 伝令が走った。走ったものの、急襲を受けて孟徳の軍は浮足立った。衆は右往左往した。それを叱咤し、防御柵がわりに車を連ねて騎馬兵を防いだ。
 矢は唸りを立てて横殴りの雨のように降った。止むことなく降った。そして孟徳の兵士は死神に鞭うたれたように次々に倒れていった。
 ああ、これが西州兵か、一矢といえども無駄がない。
「読めたぞ。やつら、わしらに布陣させまいとしておる」
 孟徳が怒鳴った。
「速戦速攻じゃ。これは匈奴や烏丸の戦法じゃ」
 曹洪が怒鳴り返した。
 とにかく陣を立てねばならぬ。そのころになってようやく投石機が間に合い、騎馬兵に石を投げ馬を脅し、騎馬兵の進撃を食い止めようとした。が、すでに柵が破られ、敵兵が孟徳の軍に乱入した。白兵戦である。
「車に火を放て」
 火を放って敵の馬を脅さねばならぬ。敵の侵入を食い止めるために。このころには孟徳も指揮をとるどころか、応戦に暇がない。
「ああ、まずい」
 なんとしても陣を立てねば敵の思うがままだと思った瞬間、太股が火で焼かれたように熱くなった。あっと叫んで太股を見ると流れ矢が突き刺さっていた。ちっ。舌打ちしたとたんに馬がどうっと地にへたりこんだ。そのはずみを食らって孟徳は地べたに転げ落ちていた。孟徳の馬もまた無数の流れ矢を受けていたのである。
「孟兄いっ」
 駆け寄ってきたのは曹洪である。一目で事態を察した洪は、ひらりと馬から飛びおりると孟徳を抱え起こし、洪の馬に跨らせようとする。
「なんてことをする」
 孟徳はわめいた。
「孟兄いよ、つべこべいわずにわしの言うことを聞いてくれ」
 洪が睨み返す。
「馬を譲ったらおまえ、命はないぞ」
「わしがいなくとも天下はどうってことはない。兄いっよ、孟徳なくして天下はどうなる」
 有無を言わせず洪は孟徳を鞍に跨らせたという。
 
 
続く。