丁夫人の嘆き(曹操の後庭)五十六

          丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十六
 
 後続をつとめる衞茲(えいし)のもとに孟徳の伝令が走った。伝令は茲の顔見知りである夏侯惇だったから、茲は意外そうに小首をかしげた。役不足ではないか? 茲の目がそう物語っている。
 惇(じゅん)は気付かないふりをした。「もしも衞茲が迷ったら助言せよ」と孟徳から言い含められていた。
「曹公は董卓の武将の急襲を受けた。いったん退いて汴水(べんすい)を背に陣を布くとの仰せじゃ」
 気のせいだろうか、惇の顔が暗い。
「ほう、董卓の東征軍とぶつかったか。武将は誰じゃ、よもや呂布ではあるまいな」
 衞茲はことさらに平静を装った。
呂布董卓の護衛を務めておる。こたびの東征の将は中郎将の徐栄という男じゃとな」
「猛者か?」
 口にしてから茲は恥じた。猛将でなければ東征の指揮官に選ぶはずがなかろう。愚問を口にした己は怖じているのか? 誰が相手であろうが、きっぱりと戦うのみである。
「曹公にお伝え願う。背水の陣ならわしは偃月(えんげつ)の陣を布きますぞ。鉄壁にもたとえられるこの汴水の堤を城壁に見立て、偃月をつくり、柵のかわりにずらりと車を並べますわい」
 茲の言葉に惇はにこっと笑い、何度も力強く頷く。
「これは不要になり申した」
 惇は懐から帛書を取り出した。
「それは?」
「もしも衞公が『曹公の考えはいかがか?』と問うたときは、これを渡せと仰せられた」
「拝見つかまつる。や、やっ。偃月の陣と大書してござる」
 茲は豪快に笑う。
 三日月形の陣が八分がた姿を表すのを見届けて惇は立ち去った。
 
 衞茲は汴水の堤のうえで、じっと西の原を睨んでいた。
 「ああ、こりゃいかん」
 漢の旗ばかりがなびいていた。じっと目を凝らすが五色の縫いとりをした孟徳の牙旗が見当たらない。
 「孟徳殿はご無事か? 女々しいぞ、無事に決まっておる。いかなる困難に会おうとも縦横無尽の才略で切り抜けてきた男じゃ」
 茲はすぐさま出陣の手はずを整えた。陣立ては鶴翼である。
 歩兵は首まで届く大きな楯に潜んで、鶴が羽を広げた陣をつくりながら進んだ。翼を広げて敵を囲い込み、一斉に攻撃をしかける。翼は完全に閉じないで、逃げ道を一つだけあけておいて、そこに殺到した敵をやすやすと屠るのである。
 「進め! 進め!」
 卑怯者ですら勇者にしたてあげる勇壮な鼓がなる。
「撃て! 撃て!」
 出撃の鼓は衞茲みずから打った。
 鶴の首がするすると伸び、茲自ら率いる騎兵が敵兵を撃つ。敵は一斉に逃げ、出口に殺到したが、そこで矛や矢に苦しめられ倒れていった。
 「孟徳どーの! 孟徳どーの!」
 馬を走らせながら衞茲は叫んだ。茲が敵をひきうけている間に孟徳の軍が勢いを盛り返すのをひたすらに祈った。 
 遠くでだれかが角笛を吹いて散らばった兵士を呼び集めていた。その角笛の音が遠ざかって行く。
 
 衞茲は退却した。
 孟徳が現れるのを待ったが、いつまでたっても孟徳は姿を現さなかった。
 「やはり討ち死になされたか」と思うと、怒りで茲の体が震えた。
 敵が退却した野づらが騒々しい。見ると横長の方陣がこちらに向かってくる。がらがらとうるさいのは無数の車の音らしい。「戦車か?」と問えば、斥候が「戦車でございますぞ」と応えた。
戦車には弩(いしゆみ)がしつらえてあるという。その方陣がせり出した。みるみるうちに雁の群れが空を渡るように雁行を作る。
「ありゃ、魚鱗(ぎょりん)の陣じゃ」
 さて、どうしてやろうか、孟徳ならどうする? 衞茲は顎鬚をしごいた。
「投石用意!」
「弩(いしゆみ)用意!」
 衞茲の命令がこだまのように兵士のあいだを渡って行く。
 敵の陣の一つの鱗ごとに戦車が配備されていて、戦車には御者と射手が乗っていた。
「御者を射よ!」
 合図の鼓が鳴った。
 矢が飛び交った。音を立てて石が飛ぶ。双方に多大の犠牲が出て、敵は退却した。
「敵は数万か……それに比べ」
 わが軍は少ないという言葉を夏侯惇はぐっと飲み込んだ。
 惇は本隊にもどる途中で敵に押し戻され、衞茲の陣にまいもどってきたのである。 
 
続く。(二、三日中に更新予定)