丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十七

        丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十七
 
  「閣下」
 思いつめた顔で年若い司馬が衞玆(えいし)を見上げた。
 「なんじゃ」
「すでに曹将軍の軍が崩れたにもかかわらず、あの大軍を相手に閣下は善戦なされた。かれの軍は多くわが軍は少なし。兵家は敵中深く進む孤軍を忌むもの、ひとまず酸棗にもどられてはいかがか?」
「臆したか」
 玆はこの若者を睨んだ。
 「なんの。閣下はわが一族の誇り。もとよりわが身は閣下に捧げましたぞ。閣下の身を案じて……」
「言うな、みなまで言うてくれるな」
 玆は苦い顔で若者の言葉を制した。
 「衞将軍よ。大望ある者は艱難を耐え忍ぶもの、ここは退却をよしとされよ」
 夏侯惇が静かに口を開いた。
 「衞子許はつまらぬ男でござるが心は壮士のつもりでおる。敵を前にしておめおめ逃げて帰れと言われるか」
 玆は肩を怒らせた。
 「壮士よ、のう。将軍の器量は酸棗(さんそう)十万の衆にも稀(まれ)じゃ。それゆえに将軍を惜しむ。御身は国の宝、大切になされませ」
「夏侯殿、かたじけない。たっての願いじゃ。一戦、今ひとたびの出陣を果たしたい」
今ひとたびの出陣でござるか?」
 惇は顔を伏せた。
 日に三度の出陣とはまた凄まじい。このような戦があっただろうかと思った。
 「みなの者よ、徐栄はなにゆえに大軍を繰り出して速攻にこだわるのか? 兵糧に事欠くわけでもあるまいに」
 玆が座中を見渡す。
 「ここは滎陽(けいよう)ですぞ。河の北には袁本初(紹)殿が駐屯しております。徐栄は河内(かだい)十万の衆と酸棗十万の衆を恐れております」
 さきほどの若者の言葉に一座がざわめいた。
 「みなの者よ、これが速戦速攻のわけである。わしが三度目の出陣をすれば、徐栄は援軍を頼んでわしらが時を稼いでおると確信するぞ。わしらは徐栄に一撃くらわせて退く。夜陰に乗じて擬兵を並べ、汴水(べんすい)を遡って退却じゃよ。日が昇ったらやつら、悔しがるだろうよ。これぞ退路を確保するわが策じゃよ」
 玆の言葉に衆は喜色を蘇らせた。
 
 玆は兵士を整列させると拳を天に突き上げた。
 「天よ、天よ。われらは正義をおこのう者なり」
 玆が大声を張り上げると兵士もまた武器を手に手にかざして唱和した。
 「不義は滅び正義は勝つ。天に順(したが)う者は滅びず」
 兵士はまた武器を手にかざして唱和した。
 義軍は方陣を組んで進んだ。陣のなかに藁束や甕をつんだ荷車がかくされていて、陣の外側が敵と戦っている間に、藁束を野にしきつめたっぷりと油を注いでおいた。作業が終わると義軍は一斉に退却した。
 「見ていろ、徐栄め」
 玆はじっと敵が迫る間合いをはかる。
 「火箭(かせん)用意!」
 玆の号令を兵士が復唱する。
 「射よ」
 鼓がどんと響いた。
 火箭が飛び、藁束が燃えた。敵の馬は火の壁に驚き暴れ、騎兵を振り落とし歩兵を踏みつぶす。
 「弩(いしゆみ)用意!」
 玆の号令が風のように兵士たちのあいだを渡って行く。
 火箭部隊が退き、弩部隊の車が前へ進み出た。
 「弩、射よ!」
 号令とともに鼓がどんと鳴った。
 義軍の弩は北風のように荒れた。徐栄の兵士は分が悪いとみて退却してしまった。
 
 徐栄は怒気をあらわにした。
 「あの大将はだれじゃ」
 部下に聞いたがかぶりをふるばかりだ。
 「このわしは、名も無き男にいたぶられているのか」
 栄には堪えがたい屈辱だ。
 「牛だ、牛。牛の角に松明をくくりつけて火をともせ」
 栄は真っ赤になってわめいた。
 敗戦の将を許す董卓ではない。勝つためなら数百頭の牛といえども、だれが惜しもう。
 
 「騎兵、用意!」
 号令が伝わると弩部隊が左右に道を開けた。
 「騎馬、進め!」
 鼓はせわしなく鳴り続ける。
 玆が騎兵を率(ひき)いて進んだ。
 敵の騎兵は戦意を失ったのかひたすらに逃げた。玆はそれを追った。地響きがした。目を凝らすと異様な牛の群れが現れたのだ。角に燃え盛る松明を縛りつけられた牛が、尻に鞭を食らったのであろう、興奮して戦車のように突進してくる。その後ろに敵の騎兵が続く。
 玆の歩兵は牛に蹴散らされ、ある者は逃げまどい、ある者は倒れて行った。敵の騎兵は弓の手練れ、玆の馬は矢の雨に倒れた。落馬した玆もまた無数の矢を浴びていた。目ざとい敵は大将首を狙って玆に群がる。敵兵が鞍からひょいと玆にのしかかる。玆はとっさに佩刀をひきぬいて敵兵を刺していた。
 「衞将軍!」
 夏侯惇は玆に群がる敵を矛で薙ぎ払った。
 「将軍を敵に渡すなっ。だれか、だれかあるかっ」
 叫びながら玆に歩み寄ると「おう」と、若い女の声が背後で響く。
 「われは胡娘か?」
「いかにも」
 まなじりを吊り上げた胡娘が、剣を手に惇の側に駆け寄った。
 「や、女だ」
「女がいるぞ」
「殺すなよ。生け捕りだぜ」
 羌族(きょうぞく)だろうか、金茶色の目をぎらつかせた敵兵が胡娘を囲んだ。
 「夏侯殿は衞将軍のもとへ」
 惇に囁くと、胡娘は敵兵に剣を向けた。
 「ふん。あたしは女であって女じゃないよ」
 矛の柄で胡娘の足を払おうとした男は、地を蹴って跳んだ胡娘の剣を脳天に受けて朱に染まった。
 「こいつめ、油断するな」
 仲間を殺されて怒った敵兵は矛を繰り出す。
 「死にたいのだね。望み通りに死なせてやるよ」
 身をのけぞらせたかと思うと胡娘はしなやかに前へ屈みこみ、敵の足を斬った。
 「ここはわしにまかせろ」
 聞きなれた声がして、胡三明が馬から飛び降りざまに敵兵に組みついた。
「兄さん。無事だったのね」
「ああ。放れ馬を拾って来い」
「合図はどうする?」
「梟が三度鳴け」
 胡娘は特製の長い鞭で敵の顔を撃ちすえながら姿を消した。
 惇は衞玆にのしかかる敵を斬り殺した。
 「散れ。散りやがれ」
 胡三明は玆に群がる敵の顔面に鞭を食らわせた。敵は目を鞭うたれて逃げまどうた。そこを容赦なく斬った。
 「おお」
 玆を抱いて惇は呻いた。
 「おお、これは……」
 三明の顔が曇った。
 玆の命の火は尽きようとしていた。
 「男の中の男じゃ。子許殿は壮士じゃわい」
 惇の言葉に玆はかすかに笑い、目を閉じた。
 
続く。