丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十八

          丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十八
 
 「ちと痛むが堪(こら)えてくだされ」
 懐から取り出した布を曹洪は孟徳に渡すと、孟徳の太股に刺さった矢に手をかけた。
「痛む? わしを見くびるな」
「そうこなくちゃいけねぇ。沛国譙(はいこくしょう)の男は丈夫(ますらお)じゃ」
 ぐいっと矢を引きぬくと、またもや鮮血がどくどくとあふれ出た。
「くたばれ! 流れる血にかけて誓うぞ。わしがどのような男か思い知らせてやるわい」
 孟徳は手際よく布で太股を縛った。
「一息ついたらお塗りなせえ。故郷の華佗(かだ)が練り上げた金瘡(きんそう)薬じゃ、ほんによう効く」
 素早く小さな竹筒を孟徳の手にねじ込むと、洪は油断なくあたりを見回した。
「ちっ。大将首を喰らわんと豺狼(さいろう)が群がって来よる」
 洪が目を怒らせた。
「かかって来い。この命知らずが」
 孟徳が吠える。
 「やっ!」
 敵の歩兵が孟徳をめがけて矛を突き出した。
 その歩兵は矢を受けて崩れた。彼を仕留めたのは髪を振り乱した騎馬武者で、武者は孟徳の馬前でぴたりと馬をとめ、にっと笑う。
 「あっしらで血路を切り開きやしよう」
「おお、その声は博労じゃな。生きておったか」
 孟徳が相好を崩した。
「凄まじい面つきじゃのう。返り血を浴びて鬼神の面じゃぞ」
 洪がにたっと笑う。
「どちらさまも似たようなものでございやす。あっしが殿(しんがり)だ、この耳目どもが道案内いたしやすぞ」
  博労は背後に控える耳目どもに鋭い一瞥をくれ、「命かけて、槐(えんじゅ)の祠にお連れしろ」と命じた。
 これが噂に聞いていた耳目どもか、「どれも一癖ありそうな面付きでじゃ」と、曹洪は山賊そこのけの男どもに驚いた。耳目の頭の命令一過、「おお!」と雄たけびをあげると、手当たり次第にあたりを蹴散らし矢を射た。「こりゃ、牧夫あがりじゃ」と、その騎馬の巧みさに舌を巻いた。しかも、戦慣れしている。「やはり、黄巾崩れじゃのう」と、耳目の戦ぶりに驚きあきれながら洪は孟徳の馬の尻を追って走った。
 どれだけ走っただろう、苦しくて息が切れそうだが、孟徳たちは波を切り裂いて進む小舟のように敵のまっただ中にいた。「走らねば、走らねばなるまい」と、洪は歯を食いしばった。そのとき、洪は天地を揺るがす雷鳴を聞いた。
「子廉(洪)よ。陣太鼓じゃ、聞いたかあの陣太鼓、衞子許が出陣するぞっ!」
 孟徳が嬉しげに叫んだ。
「わしは天雷じゃと思うた」
 洪が叫び返した。
「気を抜くな。もう少しの我慢じゃぞ。き奴ら、陣を立て直すために必ず退却しおる」
「了解。やつら、浮足立ってやがる」
 孟徳の馬の尻が洪の汗でかすんで見え始めた頃、またもや孟徳が叫んだ。
「鳴ったぞ、子廉。聞こえるか?」
「聞こえるぞ。ありゃ敵の退却の鼓じゃねえか」
「引いていくぞ。蝗(いなご)のように飛んで引いていきおる」
「天はわしらを見捨てない! わしらは危地を脱した」
 洪は小躍りして叫んだ。
 
続く。