丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 十八

       丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 十八
 
 
滎陽(けいよう)の戦いの曹操軍の兵員について
 
 漢の献帝の初平元(190)年春、曹操軍は滎陽で、董卓の武将である徐栄に惨敗した。
 徐栄曹操を追撃しなかった。
 「酸棗までは遠い」と、引き返したのである。
 曹操軍が少人数で終日、戦ったので心理的に圧迫感をうけたのであろう。しかも、地理的には黄河の北には袁紹の衆十万、酸棗には張邈(ちょうばく)率いる衆十万がいる。
 いつも疑問に思うのは、このときの曹操の兵員である。 三国志『魏書武帝紀』には兵員の記載はない。
 曹操は、陳留の衞玆(えいし)の助けを得て己吾城(きごじょう)で義旗をあげたが、
「魏書武帝紀」によれば衆五千である。しかし、いわゆる「孫子の兵法」では正確な兵員を明らかにしないことが兵法だという。だから、衆五千は水増しした数であると思えばよい。
 
 『先賢行状』によれば、衞茲は張邈の命をうけて曹操を追って滎陽へ向かったが、兵は合わせて三千であったという。合わせてとは、先発の曹操の兵と合わせてのことである。公称三千、実数はもう少し少なかったのではあるまいか。
一方、徐栄の兵は数万規模ではなかたっただろうか。衆十万を相手にするわけである。数万は率いていたものと思える。
 しかし、曹操も公称三千の兵で滎陽から虎牢関を目指したのだから、大した度胸である。たぶん、曹操のあとに諸将が続くと読んだのだろう。曹操の大博打である。その読みがはずれて惨敗し、曹操は兵の大半を失った。
 大半とは三分の二を指す。