曹操、亡き友人に報いる

曹操はケチで冷酷な男のように思われている。
なるほど、ケチケチしていた。
自分の娘(魏の文帝即位後はみな、公主と呼ばれた)を嫁がせるときには、その費用をケチった。民間の金持ちの娘でさえ、曹操の娘よりましな嫁入り道具をもたせてもらった。
曹操に仕える女たちは(後宮であるが)みな、長く裾をひく衣服を着せてもらえなかった。布を節約するためである。
卞皇后が曹操に、自分の実家にもっと銭や布などを賜りたいとねだると、「いつもねだってばかりいる」と、叱りつけて許さなかった。
皇后列伝は、彼女たちのきれいごとを体裁よく記すが、「それは史官の礼儀作法である、スキャンダルを書くのは史官としての道を踏みはずす行為」らしい。古人はそのように記している。

曹操は根っからの「しわん坊」ではない。臣下にはたっぷりと下賜した。要は「死に金」は使わない主義だ。
曹操には古くからの友人がいた。蔡邕(さいよう)という男である。
注:邕(よう)は環境依存文字。「災」の火の部分を邑に置き換えた文字だ。
蔡ヨウは学問、詩文、音楽にすぐれた男である。曹操も戦乱の世に生まれなかったら、詩文と音楽で名を上げただろう。
蔡ヨウには琰(えん)という賢い娘がいた。娘の字(あざな)は文姫といった。
注:琰(えん)は環境依存文字。「談」の言を王に置き換えた文字(王+炎)
文姫は音楽的才能にも恵まれていて、音に対する感覚は鋭敏だった。
あるときヨウ(邕)が琴(きん)を弾じていたが、第四弦が切れた。
「あら、第四弦が切れてしまいましたね」
すかさず文姫がいう。まわりの者が文姫の鋭さに驚いた。しかし、ヨウ(邕)には信じられなかった。
「いや、まぐれあたりだろう。たまたま言い当てただけじや」
試しに琴を弾じてわざと第二弦を断ち切ってみた。
「第二弦でございますね」
文姫は涼しい顔でぴしゃっと言い当てた。
文姫は年頃になって結婚したが、夫に死なれ、子供もいなかったので、実家に戻ってきた。

そのころ、乱暴者の董卓が少帝を廃してわずか九歳の陳留王を皇帝に擁立した。
文姫の父、蔡ヨウ(邕)はひろく人望を集めていたが、董卓に脅迫されて、董卓に仕える羽目になった。ヨウ(邕)は董卓に気に入られ大臣にまでなった。ヨウ(邕)は諫言につとめた。
初平三(192)年夏四月、董卓が殺されたとき、その知らせに接して思わず顔色を変えた。それを司徒(しと)の王充にとがめられ刑死した。
漢書」を書くのがヨウ(邕)の夢だったらしい。そのために董卓の脅迫に屈し、王充に命乞いをしたが、許されなかった。王充はその年の六月、董卓配下の武将、李傕(りかく)に殺される。
注:傕(かく)は環境依存文字。確の字の石をニンベンに変えた文字
蔡ヨウ(邕)が殺された初平三年は
正月に袁術の武将孫堅が、襄陽にいた劉表を攻めたが戦死してしまう。
四月には東郡太守だった曹操が、黄巾の賊を寿張の地で大破し、賊徒を降伏させている。

父の喪があけた年の冬、興平二(195)年の十一月、混乱はおさまらない。南匈奴の兵を招いて李カク(傕)に対抗した。
そのとき、文姫は胡騎(えびすの騎馬兵)にさらわれ匈奴の左賢王のものになり、南匈奴のなかで十二年間過ごした。その間に二子をもうける。
曹操はヨウ(邕)の家の跡継ぎがいないことを憐れんで、使者に金や璧玉(へきぎょく)を持たせて匈奴の居住地に行かせると、文姫を贖(あがな)わせた。いわば、文姫を買い戻したのである。文姫は曹操の仲立ちで董祀(とうし)という者と結婚した。
才女、文姫はそのときの略奪の凄まじさと悲しみ、憤りを詩二章に著した。
これがすごい。心を揺さぶるのだ。

……斬り殺されて生き残っ者はなく、屍はいたるところに転がっている。馬の辺(はら)に男の首をぶらさげ、馬の後(しりえ)に婦女を載(の)す……

捕虜になったものは幾万人もいて、家族ぐるみでさらわれた者もいたが、刀や鞭で脅されるのでお互いに口もきけぬありさまと、悪しき時代を告発する。

興味のある方は、図書館で吉川忠夫訓注「後漢書」第九冊(岩波書店)の列女伝、第七十四「陳留の董祀の妻は同郡の蔡ヨウ(邕)の女(むすめ)なり」をご覧ください。格調たかく訓読されていて、文姫の詩からは三国志という時代の臭気をかぎ取ることができます。
また、漢詩の訳はとても難しい。一字一句に故事来歴が秘められていたり、韻を踏んでいたり、さらに語調も美しく読み下さねばならないので、猫守は敬遠している。