丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十

        丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十
 
 孟徳は星に跨っていた。 ずっと昔から慣れ親しんできたように、星は孟徳の意のままに動いた。
 昔、龍を飼いならした『龍使い』がいたが、わしのように星を駆使する『星使い』というのもなかなかよい。
 「博労がみつけてくる馬よりも上物じゃわい。寝転んでみても落ちない」
 孟徳は声を立てて笑った。鬱屈してざらついた心が久しぶりにからりと晴れた。
 「大王よ。もうお忘れか?」
 跨っていた星が口をきいた、まるで長年の友を忘れてしまった孟徳をなじるように。
「忘れた? 何を」
「大王はいつもわたしに跨り、風のように世界を巡られた」
「わしが……大王とはだれだ?」
 孟徳は首をひねった。
 口をきく星も星の話も面妖である。面妖だが悪い気はしない。
 賄賂が通用しない世界では、武を奮う武将という意味をこめた奮武将軍でしかない。大王などと誰が呼んでくれるのだろう。
 ふり仰いだ天空を無数の流星が群れをなして流れていく。流星群は北斗七星から流れだし、四方へと流れていった。
「そうか……天宮の天門が開いたのだな。良い星、悪い星、天の囚人どもが下界に放たれたのか」
 なぜこのような言葉が孟徳の口をついてでるのか、孟徳にも不可解でならなかった。がばっと身を起こし「ああ、これは夢だ、夢に違いない」と、つぶやいた。夢でなければ狐狸か魑魅魍魎(ちみもうりょう)の仕業にちがいない。だが、ふと見た彼の体は水精(すいしよう)のようにきらきら輝いていた。
 飛び交う流星群はそれぞれが首魁(しゅかい)とおぼしき、ひときわ強い光芒を投げる星に率いられて下界へと急ぐのだが、首魁と目される星を操る者たちのなかには猿や犬、虎や狼の類まで混じっていたから驚きだ。
「あれも大王なのか?」
「ええ、まあ……そのようです」
 星はあくびを噛み殺しながら答えた。
「大王よ、急がれいっ」
 頭上で若々しい声が響いた。声が終わると同時に鐃鈸(にょうはち)が誇らかに澄んだ音をたてた。まるで雒陽(らくよう)の白馬寺で仏会(ぶつえ)に立ち会っているような気分だ。 鐃鈸の音を合図に孟徳が率いる群星が下界へと流れた。
 西域の箜篌(くご)の短い弦を弾いた音がした。燐光を放つ星が孟徳を追いぬいて行った。追い抜きざまに、体の内から光を滲ませる貴公子が、刃を含んだ一瞥を孟徳に投げかけた。一瞬のうちに孟徳は、その天人が袁紹だと悟った。
 「急げ! あいつにだけは負けとうない」
 火のように熱くなって孟徳は叫んだ。