丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十一
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十一
孟徳は歌った。
天下に男(お)の子ありて濁れる世を憂う
春の川辺に人知れず咲く薫り高き蘭よ
わが意気は蘭に似て気高く才は世に聞こゆ
沸き立つ四海、いざ鎮めん。いざ、鎮めん……
「いっひっひっ。ぐっわっはっはっは」
なんとも無遠慮な笑い声が近づいてきた。
「天下に男の子ありだと? 大海を知らぬ井の中の蛙じゃのう。わが兄に優る丈夫(ますらお)などおらぬ」
大声が響き渡った。
「これ、雲長よ。大事の前ですぞ、いざこざはなりませぬぞ」
おっとりとたしなめる声が響いた。
喧嘩を売られたも同然の物言いに孟徳は、太い眉をひくつかせた。振り返ると大耳の男を乗せた星が、一間ほど後ろに迫っていた。
大耳といったが、耳全体が大きいのではなく耳朶が異様に長い。垂れさがっているのだ。その大耳のそばに、雒陽の青陽門のようにばかでかい男が突っ立っていた。この青陽門、おっとこの男、男臭い大ぶりな目鼻立ちをしていたが、顎髭が長くて艶やかである。
「無礼者め。名を名乗れ」
怒りにまかせて孟徳は、大耳めがけて鞭を振るった。
「兄上になにをするっ。兄への辱めは弟への辱め、恥を雪ごうではないか」
鬚男は孟徳の鞭をぐいっとひっつかんだ。
「かまうな。急げ、急がねば負けぞ」
大耳が鬚男に目配せした。
「おうさ、急ぎましょう」
鬚男は掴んだ鞭を引っ張った。あっと思った瞬間、鞭は孟徳の手を離れ、鬚男の戦利品である。布でも引き裂くように鬚男は鞭を引きちぎり、ぽいと下界へ投げた。鞭は燃えながら落ちて行った。皮の鞭を紙のように引き裂いたと、孟徳が呆気にとられているうちに、大耳の兄弟たちは群星を率いて孟徳を追い抜いていった。
「なんだ、あの者たちは?」
「いずれわかりましょうが、鷹揚に構えておられませぬ」
「袁紹よりも手ごわいか?」
「さぁ、人としての格が違います」
「そうかな? 追え。袁紹を追え」
孟徳が叫んだ。
「追え。追え」と叫んだつもりだが、叫びは声にならない。代わって耳に届くのは鳴き交わす梟の声だった。そして、ぽたっ、ぽたっと温かい雨が孟徳の顔をぬらす。夕立らしい。ぬかるんだ道、泥だらけの衣。
「郎君はまた怪我をなさって……」
乳母は小さな孟徳を抱きしめて泣いたり怒ったりした。
「ばあや。泣くでない」
ぱちりと孟徳は目を見開いた。あたりは真っ暗だった。ここはどこだ、がばっと身を起こそうとしたが、いやに体が重い。
「まあ、気がつかれましたのね」
歌うような卞娘の声がして、やわらかな頬が孟徳の頬に擦りよった。卞娘の頬を滴る涙が孟徳の頬を濡らした。
「おまえ、泣いていたのか? わしが死んだと思うて」
「はい。もう……殿とお別れするのは嫌でございます……だから……私も」
とぎれとぎれにささやきながら卞娘は鼻水をすすりあげた。
あす更新続く。