丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十二

          丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十二
 
 
  「目覚められたか」
 押し殺した曹洪の声がして、無骨な温かい手がぎゅっと孟徳の手を握り締めた。
「ああ、その声は子廉(洪)だ、生きておったか……」
「当たり前じゃ。呼んでも起きんから心配したぞ」
「そうか……、わしは星に乗って空を駆け巡る夢を見とった……。ここは暗いのう、黄泉路(よみじ)は暗いと聞いたが、ここはどこじゃろ?」
「水音がひたひたと聞こえましょ。危地を脱したのじゃ、汴水(べんすい)のほとりじゃぞ。水神の社(やしろ)で憩うておる。龍の祟りを恐れて、暗うなるとここには誰も近寄らんらしい」
「この社の龍は、夜な夜なそこらをうろつきなさるそうな」
「おっ、その声は博労だな、無事だったか」
「へぇ。あっしはこの通りで。子脩どのも無事ですぞ。兵糧をもって向こう岸でお待ちじゃ」
 博労は鼻水をすすりあげた。
「運が強いぞ。閣下は強運の持ち主じゃ。徐栄の奴、勝ち戦のくせに退却してしまいよったぞ」
「なにゆえじゃ?」
 孟徳が身を起こした。
「さぁ、なにゆえか……徐栄はこのまま西へ戻るつもりらしい」
「なんと……わしなら追撃じゃ」
「衞子許どのの壮絶な討ち死に、気をのまれたでござんすな。酸棗(さんそう)の衆は決死の戦いをしよる。酸棗を抜くのは容易ならん大仕事じゃと嘆息したと聞いとります。気を抜かれた軍とはこういうもんでござんしょ」
「ああ、子許は討ち死にしたのか……」
 孟徳の声が泣いていた。
 
 徐栄は猛将であるが、猪突猛進するような猪武者ではない。草の根を分けてもの探索が続いたなら、孟徳たちはひとたまりもなかったはずだ。栄がそうしなかったのは、孟徳にとって幸運このうえもないことであった。
 思慮も野心も人並みに持ち合わせていた栄は、世情定まるところをじっと見据えていたのである。董卓という男の器を見抜いていたのだ。天下国家をうんぬんする器でないことは確かである。さすらう幼い天子が四海の波を静めるなど、叶わぬ夢である。乱はつづくだろう。故郷である東の辺境に目を向けると、そこは中原よりはるかに安定していた。遼東の地で乱をさけて勢力を築くにかぎる! やがては遼東にもどるつもりだったらしい。
 滎陽でぐずぐずしていると黄河の北から袁紹が、東から酸棗の衆が動くと読んだのである。義兵の動きにかんする情報があまりにも少なすぎて、実情に疎かったのだ。しかも戦というものは今、勝っても次もまた勝つというものではない。なにをきっかけに形勢が逆転するかわからない。負ければ董卓の怒りを買う。徐栄はここが引け時だと断じた。
 
 梟が鳴いた。
「いやに梟が鳴く。巣でもあるのか?」
 孟徳がつぶやいた。すると「へぇ」と、博労が間延びした声を発した。まるで笑いをこらえているような声音だ。
「あの梟は『大丈夫だ、あたりにだれもいない』と鳴いておりますな。さ、急いでおくんなせぇ」
 博労に急かされて一同は社をでた。枚(ばい)を含ませた馬は、いななき一つくしゃみ一つするでなく、されるがままで大人しい。孟徳を馬の背にくくりつけて一行は、黙々と汴水の河原を歩んだ。北斗七星を背に向けて一歩、また一歩と酸棗へつづく街道を遠ざかるが、街道をそれたことについて誰も何も言わなかった。どの面さげて
酸棗にもどれようか。衞子許(茲)を死なせ兵の大半を失った敗残の将である。
 「どこへ行こうか?」
 ぽつんと孟徳がつぶやく。
「譙(しょう)がある、譙へ帰ろう」
 行く手をきっと見つめたまま、きっぱりと洪が言った。
 
 
続く