丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十三

    丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十三
 
 「わしは酸棗に行くぞ。行って諸将の罪を糾弾してやる。衞子許を見殺しにしやがって。うるさい奴だとわしらまで始末するつもりだったのじゃぞ」
 ずしりと腹にこたえる声を孟徳が発した。股(もも)に受けた矢傷は痛むはず、身内から発する憤怒が痛みを忘れさせているらしい。
 「行くのはおよしなされ」
 孟徳の鋭い視線から目をそらしたまま、洪は静かに応えた。
「なぜじゃ?」
「あやつら、衞子許を見殺しにしておきながら、敗戦の責めを閣下に負わせようとするに違いない。春秋戦国、楚の将軍が「敗軍の将はいかがなさる」と将軍たちに責められ自害に追いこまれたように、閣下を糾弾いたしましょう。譙に帰り兵を募りましょう。その兵を率いて酸棗に行き、糾弾するものを威圧すればよい。今は行ってはなりませぬ」
「しかし……曹一族が譙を去ったいま、故郷はもぬけの殻じゃよ、他郷にも等しい……兵は集められるか……のう」
「閣下らしくない。いやに弱気になられた。琴の弦は切れても妙なる余韻は耳に残る。曹一族は去っても一族の栄光は夕映えのように美しく空を彩っておりましょう」
「うむ」
「閣下は譙で兵を募る。わしは時の揚州刺史と昵懇の仲じゃ、ちいっと足を伸ばして揚州(江蘇省)で兵を借りるつもりじゃよ」
「なんと陳揚州と昵懇か、そりゃよい、好都合じゃ」
「そこで孟兄いは熱弁をふるってくれ。檄文を書いてくれ。魂をゆさぶり心を奮い立てる言葉を練ってくれ。ところでわしの私兵がざっと一千……」
「子廉よ、おまえの私兵はどこじゃ? みな逃げ失せておらぬぞ」
「ふふっ。逃げてどこへ行く? この飢饉じゃよ、食うためにわしのところに戻ってくる。すでに手下が角笛を吹いて散卒を拾い集めていたわい」
「たいした男じゃよ、子廉という奴は」
 洪は照れたようにやっと笑った。
 
 続く
 
時間がないのでここまで。
また、史料の扱いについては雑記でえんえんと語ります。でないと、三国志マニアに白い目でみられそうです。
更新、遅れてごめんなさいね。