丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十八

           丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十八
 
 
 劉備の勢力はまだ微々たるものであるが、彼の名を口にするときふと、人々は漢朝を再興した光武帝のことを思い出させた。この男の出現によって、劉氏はまたもや光芒をとりもどし燦然と輝きわたるのではなかろうか? 世人が劉備のことを語るときの好意的な口調に、袁術は過度に反応した。
「……この術はのう、生まれてこの方、劉備というような男の名など聞かぬわい」
 聞きたくなくとも劉備の旗揚げは衆知のことである。その場に居合わせた者は袖で口元を押さえて笑いをかみ殺した。内心では「おお、尊大な男よのう。ちかごろの術は、高慢さばかりが鼻につく」と、嘲笑ったものだ。
 人の口に戸は立てられないという、このような噂はこの酸棗にまで聞こえていた。なんと傲慢な男と、皮肉の一つも言ってやりたいが、迂闊なことを言えばそれに尾ひれがついて足元をすくわれる。ぐっと言葉を飲み込んだが、博労の顔を見ると警戒心がとけて、ぷりぷり怒りながらしゃべってしまった。博労は鼻に皺をよせて声をたてて笑った。
 「曹の義姉さま」
 夏侯惇(じゅん)の妻が駆け込んできた。
「どうしました?」
「変な話を聞きましたわ」
 惇の妻はわたしの顔と博労の顔を等分に見て言い淀む。
「ああ、この者なら心配無用。わが君の昔からの知り合い、腹心というべき忠義者ですよ。博労とも耳目の長とでも呼ぶがよろしい」
 腹心と言われて博労はにいっと目を細めた。
「義姉さま。西に連れて行かれた天子は、先帝のお種ではないそうです」
「えっ」
「王美人が生んだ子は生まれてまもなく死んだそうです。欲にかられた王美人は、どこぞで男の子を捜してきて皇子と偽ったのですって。この秘事を知る者たちはみな殺されてしまったとか……」
「それをどこで聞きなすったのかね?」
「張太守の厨房で、下女が湯を沸かしながらしゃべっていましたのよ。そもそも、王美人は不義を働いて子を宿したそうですからね。どちらの子も先帝のお種ではないとすると、義兵を起こした大義はどうなると、下男まで拳を天に突き上げて嘆いておりました」
 惇の妻は眉をひそめ、うっすらと涙に覆われた目をすがるようにわたしに向けた。
「はぁ、天子が先帝のお種でないとは。ああ……困りました……天子の諱は協ともうされますが、あの名は、先帝ご自身によく似ていることからとおおせになられ、似ているから協と命名されたと聞きました。なんと、他人の空似とですか……」
 孟徳は偽天子のために兵をあげ、衞子許は偽天子のために討ち死にしたというのか、わたしは思わず惇の妻の手をぎゆっと握りしめていた。
「確かめなくちゃいけねぇや。にわかに信じるのも何ですかねぇ」
 博労が腕組みして額に皺を寄せた。
 
続く