丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記 二十三

          丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 二十三
  
 さて、今回は史料についてのわたしのスタンスです。これを語るについて、恥多き私の過去を曝すことになるという恐れがあり、断じて語りたくはなかった。
 が、最近、中国で曹操の墓が発見されというニュースが駆け巡り、私もブログに書きました。墓に同時に眠るのは誰? 高揚感に浸っていると、あの墓は偽モノで観光客を誘致してお金儲けを企んだ結果、関係のない墓を曹操の墓にでっち上げたというニュースが飛び込んできました。(これらは私の友達の蒼天曹操軍さんのブログに記載されています)
 さらに正史である三国志の魏書『武帝紀』には、曹操の父である嵩は、曹騰の養子で、曹騰の費亭侯の位を継いだと記載されています。
 嵩がどのような一族から養子に入ったのか記載されていません。同姓から養子を迎えるのが普通ですが、その記載はなく、ただ呉人が作った「曹瞞(そうまん)伝」や郭頒の「世語」では、『曹嵩は夏侯氏の子で、夏侯惇の叔父である』としている。
 
 ところが曹操直系の子孫の遺伝子を調べたところ、曹氏の遺伝子は見つかったが
 夏侯氏の遺伝子などは見つからなかったと、中国の通信社が伝えているという。
 このニュースも蒼天曹操軍さんのブログで記事アップされています。
 ええっ。どういうことなの?
 夏侯氏一族と曹操のただならぬ親密さは、まさに血族の連帯でしか見られぬ馴れ馴れしさがあります。親族と考えれば納得がいく緊密さです。
 遺伝子では解明できない謎が残るかぎり、私は夏侯氏から養子に入ったという説をとりたい。
 余談ですが、史料を読んでいると眉に唾をしてなんて時もまま、あります。昔、史料の扱い方に悩んだことがありました。中国ものの大家であるC氏にお電話で相談いたしました。すると、「正史に書いてあることはそのまま信じてよいでしょう。それ以外によりどころにする史料がありませんからね」との、ことでした。
 C氏とは全く面識がございません。当時、放送作家をなさっていた某氏が偶然、私の原稿に目をとめられて、「あなた、僕は力にはなれませんが、C氏はとても包容力がある温かい人ですよ」と、C氏の講演会のチケットを渡され、「会場で氏から直接教えを請いなさい」と、言われたのです。でも、講演会が終わるとC氏はマスコミの人に囲まれ、私なんか近寄れません。
 結果を聞いた某氏は電話番号をメモしてくれて「自宅へ電話しなさい」です。
 というわけで、本当に恥と無礼を忍んでのお電話でした。
 その後の私はわけありで文筆から遠ざかり、二人の子供と自分を養うために働きました。やっと自分の時間を持て余すようになったいま、迷いそうになったら某氏とC氏の教えを思い出すことにしている。
 
 某氏はおっしゃった。決して人の亜流であってはいけない。誰かの真似などするな。
 C氏は教えてくださつた。迷うことなく正史をよりどころとしなさいと。心の中では先生とお呼びしているC氏は、正史といえども迷信じみた(五行志や瑞徴志など)ものは採られなかったが、私は当時の社会の空気を知るものとして採りいれている。
 
 さて、最後にこの間の雑記に秦の始皇帝を書きましたが、始皇帝が方士の徐福に
不老不死の仙薬を捜しに船出させましたが、徐福の船団が漂着したという伝説が伝わる福岡県八女市では、徐福にちなんだお祭りが毎年行われているそうです。八女市在住の「のんびり湯ったり歩こうよ」さんの『徐福伝説』ごらんください。
 
 ネットで徐福伝説を検索すると本州の北にまで徐福伝説があるのですね。