丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十九

             丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十九
 
 「気の毒なこった……」
 気がなさそうに博労がつぶやく。
 気の毒なことだと言ったりには、博労の心はここにあらずの体である。これでは王美人の野心の犠牲になった少年が気の毒なのか、正統な天子でない少年のために旗揚げした義軍が気の毒なのか図りかねた。なんて薄情な男だこと。わたしたちのために拳を天に突き上げて、少しくらい怒った素振りでも見せてくれればよいものを。
 ふくれっ面を向けると、思案するように眉根を寄せて目をつぶっていた博労が、ぱちりと目をあけた。
「こりゃ、面白い、何やら臭って来やしたぜ。ほら、董卓に殺された弘農王のことで思いあたりやしょ」
「弘農王ですか?」
「さようで。悪い噂が立ちました」
「あの王は董卓に殺された何太后がご生母ですね。ご生母が宦官と縁が深かったので憎まれて、おつむが弱いと陰口たたかれました」
 わたしの言葉に博労がにいっと笑った。
「あっしはあの時思いやした。臣下というのは妖怪じゃわいと。まっこと恐ろしいもんでござんす」
「ええ。毒酒を強いられた弘農王が、今生の思い出に寵姫たちと詩を詠み交わしますわね、そのやりとりがなかなか鋭敏で、とてもおつむの弱い人の所業とは思えないのですよ。王に、生涯独り身を誓った寵姫がいたとか……心を通わせることすらままならぬ鈍い男に、殉ずる女なんていましょうか? いやしませんよ」
「ま、そういうものでござんす。このたびの噂も元を手繰り寄せるととんでもない大物がかかるような気がしてならねぇ。あっはっは。こいつはいい、殿様によい手土産ができましたわい」
 ぼんと手を打って博労は晴れやかに笑った。
 博労と史渙(かん)は暇さえあれば額を寄せてひそひそ話に余念がない。
 
 あの者たちにささやかな感謝のしるしに新しい肌襦袢でもと、わたしは夏の初めの風を楽しみながら堂の前の木陰で針仕事をしていた。人で溢れかり騒がしかった酸棗も、春の終わり頃から人が減っていった。食糧がしだいに乏しくなってきたので、孟徳が往ったうに、人々は食糧がありそうな土地へと流れていった。ああ、衆が散っていく。わたしたちはどうなるのだろう。律儀に手を動かしながらもわたしの心は、様々な不安に揺れ動いていた。
 「曹の義姉さん、曹の義姉さん」
  夏侯惇の妻の声がした。針仕事の手を止めてわたしは、駆け寄って来る惇の妻に目を凝らした。
「義姉さん、大変です」
 余程長い道のりを走り続けたのか、惇の妻はぜいぜい息を切らしている。懐から布を取り出し、彼女の額に吹き出た汗をそっと拭ってあげた。
「どうしたの?」
「史公劉殿が大変です、市で石を投げられていますわ。耳目が板きれを楯にしておりますが、あれじゃ無理です」
「何をしてまた、そんな目に遭うの?」
「孟徳殿の檄文を読み聞かせて演説をなさったからです」
「まあ、演説しただけで石を」
 わたしはすくっと立ち上がった。
「義姉さん。急いで、急いで」
 惇の妻に急かされ、わたしは一族の女たちを集めた。女でも戦わねばならぬ時がある。戸板を積んだ荷車を子供たちに引かせて市へと急いだ。
 
続く。