丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十一

          丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十一
  
 孟徳のためとあらば労を厭わぬ史渙たちを、だきることなら山海の珍味でもてなしたかったが、流浪の身であるわたしには所詮叶わぬことだった。この頃、酸棗も飢色に染まりつつあって、義旗のために集った十万の衆は、食えぬと見て取るや食糧を求めて散っていった。本当に孟徳が予言した通りの事態である。
 地方から朝廷に運ばれる穀物や帛(きぬ)などの税は、道中で盗賊や様々な勢力に阻まれ、ごくわずかしか長安に届かなかった。義旗の首魁もまた租税の輸送隊を襲ったから、董卓の怒りは凄まじかった。天子の身を案じた刺史(しし。州の長官)が、決死隊を率いて長安に物資を送り届けたという美談まで耳にした。
 
 渙たちが河内に発つ前の日に、ようやく酒肴がそろった。魚や鶏、濁り酒、二人は目を細めて端をうごめかして子供のようにはしゃいだ。
 強い酒にしたたか酔い、興の赴くままに渙は琴に合わせて『壮士歌』を歌いながら舞った。別れの宴に「ひとたび去りて帰らず……」とは不吉ではないかと思ったが、近頃では宴席で喜々として挽歌を歌う殿方も多いとか……。剣をきらめかせ、眉を跳ね上げて舞う姿に、壮士の意気を思えばよいと頷く。
 「お見事じゃ」
 博労が感に堪えぬように首をふる。
「いやいや。それにつけてもどえらいご時勢じゃわい」
 渙がどかっと胡座をかく。
「ほんに、ほんに。怖い世になりましたのう。あっしのように諸国を歩き回ると、天子の威光がよう見える。諸国に主がござんす、天子も董卓もおりゃせんのじゃ。ふと、思うのですな、流れ流れてあっしはどこへ行くのじゃろ? 一寸先が見えるようで見えんのじゃから……」
「博労殿よ、お主とは気が合うぞ。よう、言うた。天下分崩し、四海横流すとはまさにこのことじゃ。わしらは光武帝が兵を挙げなさった時と同じ時代を生きておるのじゃ」
「さようで。さようでござんす」
 曹と夏侯一族の婦女子が隣室で聞き耳を立て居るのを知ってか、博労は一段と声を張り上げた。もしもの時は、彼らの話を覚えておいて安全な土地へ逃げなさいと訴えているように思えた。
 
続く
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遅れてごめんなさい。書いたものを冗長だったから削除して作り直しましたので。