丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十二

            丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十二
 
 翌朝、城門が開くと、史渙(かん)たちは待ち構えていた商人や巫覡(ふげき)たちと一緒に河内に向かった。わたしに路用の心配をさせまいと、市で河内に行く旅人を募って護衛を引き受け、路用を工面していたのだ。孟徳は人に恵まれていた。孟徳はやはり眩しく輝いていて、人を逸らさない力が備わっていたのだ。
 城外まで見送るわたしに博労がささやいた。
 「天子が先帝のお胤(たね)でないという噂、ありゃ、河内から来た商人たちがばらまいたものでさぁ。巫女に旅の安全を呪いさせて旅立ちやしたよ」
「それじゃ、噂の出所は河内?」
「ま、そんな所で。商人どもは耳目でござんしょ。東と南に分かれて行ったらしい」
 博労はくすくすっと笑った。
「ということは、青州や揚州くんだりまで噂を広めるのですね。董卓の息がかかった天子を見捨てて新たに」
「おっと口にしちゃいけませんぜ。信じたふりをするのも世を渡る術(すべ)」
 そうだったと、わたしは博労の言葉に素直に頷き、「袁勃海は新しい天子を立てたがっている」という言葉を呑み込んだ。したたかに生きねばならない、託された一族と子脩を護るために。
 「ご覧なせぇ、あの男」
 博労が顎をしゃくる。
「あの青い衣の男かぇ?」
 博労の視線の先に荷車を引く中背の農夫の姿があった。
「用心しなせぇ。あの面付き、物腰、ありゃ農夫じゃねぇ。刺客か耳目か、胡三明が来たら探らせやしょう」
「……」
 呆気にとられてわたしは農夫の後ろ姿を見送った。
 博労が跨った驢馬の姿が小指の先ほどに縮んだ。すると張りつめていた気がゆるんだのか、体から力が抜けてわたしはしゃがみ込んでしまった。
「曹の義姉さま、どうなされたの?」
 夏侯惇の妻があわてて顔をのぞき込んだ。
「ま、義姉さま。泣いておいでか」
「見ないでくださいな」
 あわてて両手で顔を覆った。
「悲しいことがおありか?」
「孟徳があまりにも小さく思えて……それが悲しくて」
 昨日、博労たちが話していた四人の劉氏と孟徳とを比べて、思わずわたしは泣いてしまったのである。
 
 続く