丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十六

 
            丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十六
 
 四龍は四劉、四劉の最たる者は幽州牧の劉虞(りゅうぐ)だ。そう言ったのは陳留の孝廉、衞茲(字は子許)である。
 あれは孟徳がはじめて旗揚げした己吾(きご)の地でのこと。
 ああ、わずか数ヶ月前の出来事が遠い昔に思えるが、孝廉の強い光を放つ鮮やかな目も、落ち着いた声音も、目を閉じるとまるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。あの真っ直ぐな目が孟徳の魂を掴んだ。いえ、心を掴まれたのは孝廉の方。
 「わしゃのう、四劉のことを思うとつくづくと宿命というものを考えさせられるのじゃ」
「ほう、宿命とな」
 孟徳の太い眉が跳ね上がった。わが君は宿命という言葉をあまり好まない。けれども話に夢中だ、その証拠に上体を前後に揺すって威厳とはほど遠い様である。あらあら、袖に馳走の汁がついたのにも気がつかない。子脩は目をきらきらさせ、一言一句聞き漏らすまいと孝廉の話に耳をかたむけている。
「のう、孟徳殿よ。四龍は四劉と言うが、これがみな前朝の景帝の皇子たちを祖先とする者ばかりではないか?」
「おお、なるほどのう」
 孟徳が頷く。
 鈍いことであるが、衞孝廉が指摘するまでわたしには思いも及ばぬことだった。それは四劉が宗室の一員といっても天子の従兄弟であるとか伯父、甥の仲ではなかったからかもしれない。家系図をひろげて幾世代もたどらないとわからないほど、遠い血筋だった。
 「わしゃ感嘆しましたぞ。漢を再興された光武帝はどの王家の子孫じゃ? 子脩殿、答えられるかな?」
「はい。光武帝は景帝の皇子である長沙定王(劉発)の子孫でございます」
 子脩は即座に返答した。
「そうじゃ。長沙定王の直系ではなく傍系じゃよ、傍系」
 孝廉は意味ありげに髭をいじくり、にっと笑う。
「いやに傍系を強調されるが、その意図は何ですかな?」
「いやなにねぇ、わしゃ天の皮肉な微笑というものを感じるのですわい。ああ、これはもう、天が定めた宿命でござろう」
 孝廉はまるで天を仰ぐように天井に目をむけた。
「なるほど。一人の婦女を翻弄した数奇な運命が子孫にまで及ぶ……」
 孟徳が夢見るように目を細め、さかんに首を振る。
 その話ならわたしも知っている。あまりにも有名だから。
 
 長沙定王の母である唐姫は、景帝の寵姫である程姫の侍女だった。ある日、程姫は寝所に召されたが、あいにくと月の障りである。宦官に言えば代わりの寵姫を差配してくれるのだが、程姫はそうしなかった。侍女を哀れんでのことか悪戯心からか、夜陰をよいことに侍女に程姫の衣を着せて寝所に侍らせた。一夜の寵を受けて侍女は身ごもった。その侍女が唐姫である。事情を知った景帝は卑しい身分の女だと恥じ、唐姫を疎んじた。唐姫は月満ちて無事に皇子を産んだ。その皇子が長沙定王(劉発)である。
 
 続く