丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十七

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十七
 
 「のう、天の遠謀とは計り知れぬ。宿命とはこういうものじゃ、景帝も黄泉の国で苦笑しておられよう」
 子許は幾度となく頭をふった。
「うむ……、所詮、腹は借り物という……、天は卑しめて尊ぶのがお好きですな。われらの心を試すかのように」
「天は悪戯がお好きとみえますのう。……『おお、このご婦人は皇帝を生みますぞ』と人相見に言われた薄姫と、龍の子である高皇帝との間に生まれた子が文帝ですな。そして文帝の子が景帝でというわけじゃ。天の遠大な謀は人智を超えておる」
「景帝の子である武帝は、匈奴を蹴散らして漢の領土を大いに広げました」
 子脩の瞳が星を宿したように輝く。
「こやつも男の端くれ、心は戦に逸っておるわ。青い夢を見おる」
「頼もしい郎君じゃ、孟徳殿はよい跡継ぎに恵まれましたぞ」
「いやいや、お恥ずかしい」
「親心は誰しも同じでのう。おお、話がそれた、景帝は後になって程姫の企みに気がついた。あれは卑しい侍女の唐姫だったのかと、帝は唐姫を疎んじた。生まれた子は企みの発露にちなんで発と命名された。皇子発もまた父の景帝に冷たくあしらわれたのじゃ」
 子許はおのれの話に酔っているのか、目を閉じてしきりに頭を振る。
「孝廉殿よ、わしは塞翁が馬という故事を思い浮かべましたぞ。長沙とい貧しい国に封ぜられたが、家臣の入れ知恵で領地も増えた。侍女だった唐姫にとってはこのうえもない出世である」
「さよう、さよう。侍女というものは主人の怒りに触れたらば鞭の雨をくらう、器量がおちたら洗濯女に堕とされる。奴隷じゃよ、のう。それが王太后唐氏と敬われる身分になった」
「程姫、景帝を欺いて漢の礎は盤石なりですかな」
 孟徳が笑った。
「そういうことじゃ。かの長沙定王(劉発)の子孫が光武帝じゃからのう。光武帝の長子である東海恭王(劉彊)の子孫が劉虞ときたぞ。四劉の中では最も天子と血が近い。おや、孟徳殿。笑いましたな」
「あ、いや。光武帝は劉氏という姓がもつ有難味をうまく利用なさったから」
「さよう。近いといっても百五十年以上も前に分かれた疎属じゃ。わっはっは。劉備は景帝と賈貴人の子である中山靖王の子孫らしいのう。劉焉(りゅうえん)と劉表という者たちは景帝と程姫との子である魯恭王(劉余)の子孫じゃと聞いたのう」
「そうらしいが孝廉殿よ。劉表は魯恭王の子孫ではないという噂もある」
「ほう。どうなのじゃろ?」
「私は、天の思し召しのように思えてなりませぬ。劉表という方はやはり魯恭王の子孫でございますよ。わたしは天の深慮遠謀をこの目で見ることが出来る幸せに、心が震えております」
 感じやすい子脩は思わず目頭を手で押さえた。不意に子脩が私の手の中からすり抜けて、どこかに行ってしまいそうな不安が胸を過ぎった。
 「のう、孟徳殿。景帝を通して受け継がれた龍の血がこの騒乱で目覚めたのじゃよ。で、お主は劉表を見たか?」
「おお。押し出しが立派で生来の威厳が備わっておる。政の腕前はこれからたっぷりと見せてもらおうぞ」
「孟徳殿、あの御仁を見たとき不覚にもわしゃふれ伏したくなったものじゃ。やはり抜きんでて優れているのは幽州牧の劉虞じゃのう、凶悪な烏桓鮮卑までが従順だと聞いたぞ。劉焉をどう思われるかのう?」
「ありゃ、野心家だ。天子よりもおのれの事で頭がいっぱいじゃよ」
「ふむ、やはりのう」
「孝廉殿の見立てはいかがかな?」
「目端が利いていて切れ者でね冷酷な所がある。嫌な奴だが一国をものにする素質が大ありでのう、そこがわしゃ、手強いと思とるのだよ」
 孝廉はほがらかに高笑いしたが、あれは私たちに四劉を警戒せよと暗に忠告していたのかもしれない。
 衞孝廉は信じる道を進んで短い生涯を閉じた。空の片隅で名もない星が流れるのも天の深慮遠謀なのか?そして孟徳はといえば、兵を募るために故郷をさすらっていた。
 
続く