丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記二十六 後漢の交州

丁夫人の嘆き(曹操の後庭)の雑記 二十六 
 
      後漢の交州について
 
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  上は後漢(都が東の雒陽に移った漢だから東漢とも言う)の交州全体図
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後漢の交州右半分
 
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後漢の交州左半分
 
 後漢の交州は、今の広東省から広西壮族自治区およびベトナムにまで広がる豊かな州でした。
 南海郡
  漢の武帝置く。
  雒陽から南行くこと七千一百里である。(郡境までの距離か?)
  今の香港やマカオが含まれるが、ひなびていて広州の方が開けていた。
  
 蒼梧郡(そうごぐん)
  漢の武帝置く。雒陽から南へ行くこと六千四百十里である。
  廣信県(刺史の治所が置かれたとある。この治所まで雒陽から九千里とある)
 
 鬱林郡(うつりんぐん)
  秦の桂林郡である。漢の武帝は名を(鬱林と)改めた。雒陽から南へ行くこと六千  五百里である。
 
 合浦郡 
   漢の武帝が置いた。雒陽の南、九千一百九十一里にある。
   この郡のなかの高涼城に建安二十五年、孫権が高梁郡を置いた。
 
 交趾郡(こうしぐん)
   漢の武帝置く。雒陽の南、一万一千里である。
 
 九真郡  
  漢の武帝が置いた。雒陽の南一万一千五百八十里である。
 
日南郡
   秦の象郡である。漢の武帝が名を改めた。雒陽の南一万三千四百里である。
 
 交州刺史部は一説によると(王範の『交廣春秋』)、交州の治所は交趾郡の嬴ろう県(えいろう。本字は樓の木が陸の左「阜」に変わったもの)にあったが、元封五年に蒼梧郡の廣信県に治所を移し、建安十五年には治所を南海郡の番禺(ばんぐ)に移したとある。
 番禺(ばんぐ)は現在の広東省広州市にあたる。ところでテレビでは以前に番禺のことを何度もバングウと発音していたが辞書でしらべてもバングだけど……。
 
 蜀の地で勢威を振るった劉焉(字は君郎)は江夏竟陵の人である。江夏竟陵は今の湖北省天門市にあたるが、この地は茶經で有名な唐代の陸羽の出身地であって、羽の像やゆかりの公園はあっても、劉焉にまつわる遺跡は探せないのだ。現地に行けば別であるが。
 なんだか虚しくてため息が出てしまう。