丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記二十七 揚州の治所について
丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記二十七 揚州の治所について
後漢の揚州刺史の治所、つまり刺史の役所があり官舎があるところのことだが、
所が、『漢官』では刺史の治所は寿春(安徽省六安市寿県)に置かれたとあり、
所在がはつきりとしない。
私が訂正しなければならなくなったのは、揚州九江郡の郡治が陰陵にあったので、普通なら郡治の所在地に刺史の治所が置かれているからで、刺史の治所が九江郡なら郡の役所も同じ場所におかれていると、勘違いしたからである。
曹操が曹洪の献策に従い揚州刺史の陳温に兵士を借りにいく。『後漢書』の説に従って陰陵に行き、それから盧江郡に行き、盧江の上甲二千――つまり手練れの武装兵、えりすぐりの甲(よろい武者)――を得たと思ったのである。ここを訂正いたします。申し訳ありませんでした。
『三国志』の『呉書』の巻四十六によれば、
劉繇(りゅうよう)が揚州刺史になったときのことを記し、その治所はもとは寿春(安徽省六安市寿県第一鎮)であるが、袁術がすでに寿春に拠っていたので、劉繇はすなわち江を渡り、すなわち曲阿に拠りここに役所を置いた。曲阿は今の江蘇省丹陽市である。
このように時の軍閥の勢力関係によって治所はころころ変わるのだからややこしい。
ところで、揚州の治所は呉の都が置かれた建業(江蘇・南京)の前身である秣陵(まつりょう)であるような錯覚を覚える。これは恐らく、孫権が建安十六年に治所を呉より秣陵に移し、翌十七年には石頭城を築き、秣陵という不名誉な名を建業という良い名に改めたのである。
をご覧下さい。
なお、建業が建康と名を改めたのは、西普最後の皇帝の名、鄴を忌んでのことである。