丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記二十八 後漢の揚州について

    丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記二十八 後漢の揚州について
 
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  写真は孫権の故里にある『孫氏宗祀』 孫氏の廟みたいなものらしい。
  
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  廟の内部 
       
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    龍門古鎮の義門  旗は理髪店の看板らしい。古のたたずまいを重んじて景観に調和するように    しっとりとした色合いである。中国らしくない~っ。
   
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   龍門古鎮の狭い路地。こんなところで年頃の美男美女が出会ったら……あらら一目惚れは必定だわ。 
   うぶな若旦那が阿漕な妓楼の女に、深窓の令嬢がスケコマシ(恐ろしい言葉を連発する私にたじろいで
   います。これも薄らにおつむが朧になったおじさまの影響)に……恋々路地とでもなづけましょう。
   
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   龍門古鎮遠景 山紫水明の地です
   写真はいずれも浙江省杭州市富陽市
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     江蘇省南京市の孫権の墓に建つ孫権の像
     四角い顎もこの密集した髭に覆われてわかりませんね。胴長短足との説はありますが、この像          は腰高で下半身が長いです。
     明の皇帝陵への参道わきにひっそりと建っています。まさに兵どもが夢の跡です
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            曲阿は今の江蘇省鎮江市丹陽市にあたる。
            地図を調べると丹陽市の西方に、古の城壁や城門が残っていた。
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    丹陽市の西門古街
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    丹陽市の大南門街 これらで曲阿を闊歩した孫策や少年の孫権を想像してください。
 
袁術が揚州の寿春に拠ってしまったために、揚州刺史を拜命した劉繇(りゅうよう)は揚州の役所に入れない。揚州刺史の治所は寿春に置かれていたと三国志の呉書は記す。揚州刺史劉繇は揚州は丹楊郡の曲阿に治所をおいた。
 このとき、孫権の叔父である(叔父だったと思うが?)呉景は丹楊にいた、孫策の従兄(いとこ)である孫賁は丹楊都尉であったが、劉繇が曲阿に入ると彼らを脅して追い出してしまった。そこで孫賁や呉景たちは退却して歴陽に駐屯した。
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   歴陽 今の安徽省居巣区和県 古の歴陽は公園に名をとどめていた
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  安徽省居巣区和県 鎮淮楼 なんとなく明代の建造物のような気がしますが、古の歴陽を偲んで下さい。
孫策たちは劉繇(りゅうよう)に迫られて長江の北岸にある揚州は九江郡の歴陽に拠ります。
 
 所でこの和県には項羽の衣冠塚があります。立派なものです。
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 墓道には石人まで並び楚の覇王の旗を掲げる台までありました。写真の容量がぎりぎりらしいのでこれまで。
 
揚州についてはまだ、載せないといけませんので。次の雑記も揚州の予定です。
 ※写真はすべてグーグルマップからの引用です。