丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 二十九 後漢の揚州、寿春と袁術の墓と歴陽

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 二十九 後漢の揚州――寿春と袁術の墓と歴陽
 
 後漢の揚州刺史の治所がわかりにくく、曖昧な感じがいなめないのは『後漢書』が、後漢が亡んで凡そ二百年後に出来たからだ。その間に散逸した史料もずいぶんあったはずだ。地理のような『志』にいたってはさらに数十年後に作られている。
三国志』の『呉書』によれば
揚州刺史の治所は寿春にあったが、袁術が寿春を占拠してしまったので、揚州刺史の劉繇(りゅうよう)は曲阿に治所を置き、孫策たちを脅して曲阿から追いだしたとある。
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    寿春*今の安徽省六安市寿県 古県城 賓陽門 
    下の写真は古の県城の城壁跡
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  夜景の写真は県城内の箭道街。繁華街らしい。
  中の写真は東門上にある淝水(ひすい)の戦いの碑。
 
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   東大門街から臨む寿県古城 賓陽門
 
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   寿県古城の東門の瓮城(おうじょう) 瓮城はビーカンだという。もたいで出来た戦闘のための出城く   らいの意味か?
 西暦383年、中国世界の統一の野望に燃えた前秦の苻堅率いる九十万の兵が、これを迎え撃つ東秦の謝玄率いる八万の兵に敗れた古戦場でもある。
 寿県の地図の赤いバルーンで文字が隠れているが、これが八公山景観区、前秦の苻堅が本陣を置いた八公山だ。なお、淝水(ひすい)は合肥市付近を流れる河である。
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  2007年の大水のときの寿県城の賓陽門。城攻めの時、流れをせき止めたりして城を水没させますが、水攻めを想像させるような写真です。現地の人たち、大変でしたよね。
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  袁術の墓だそうです。安徽省淮南市張老郷、厳氏孤堆
  
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   塚の頂には盗掘跡。黄泉で袁公路(術)も怒りにうちふるえているでしょう。
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   厳氏孤堆の遠景(袁術の墓) 冬枯れのなかでもがり笛のような木枯らしの音が聞こえそう。かの   人の栄華を思えば寂寥はいや増すばかり。    
 マクモニーグルさんだったけ?地図を見ただけで色々と透視する人、私も何気なく湖の側の写真をクリックしたのだ。そしたら袁術の墓がヒットして、ええっ、驚いたなあ。
袁公路さん、私は貧乏で石碑を建ててあげることができません。ごめんなさいね。わたしをこの写真に導いた公路さんに謝った。寂しいね、天下の英雄が……。あたり一帯は孤堆回族の居住地なので、袁公路がどんな人だったのか思いも及ばぬことなので、なんの整備もされないらしい。
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   歴陽 今の安徽省合肥市居巣区和県にある「鎮淮楼」
 
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   和県の公園に古の歴陽の名をとどめている。
 歴陽も交通の要害の地であり良いところだが、袁術が拠っていた寿春とは目と鼻の先という近さ、孫策たちは緊張の連続だったと推察する。
 
※記事中の写真はすべてグーグルマップより引用させていただきました。
 袁紹の墓についてはグーグルマップへの投稿がございませんので、掲載できません。ネットで袁紹の墓と検索すると、いろいろとブログが出てきますので、そちらの方でご覧下さい。