丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 三十一 孫権の都、建業について 下

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 三十一  孫権の都、建業について 下
 
 孫権(182年生~252年四月没)は、劉備が公安から去ったあとに公安に拠る。魏の黄初二(221)年四月に劉備が蜀で皇帝の位につく。同じく四月に、孫権は公安から鄂(がく)に都を移し、鄂を武昌と改名した。同年の八月には武昌城を築いた。
 董卓の乱に四海騒然とするなか、義兵を起こした武将のなかで、孫堅がもっとも漢室に至誠を通じたと後世の史官は評する。孫策またしかり、兄の業を継いだ孫権もまた漢室への尊崇は並みのものではない。漢が滅びたなかで孫権もまた自立の道を歩まねばならなかったといえる。
 その年の冬十一月、魏は孫権を呉王に封じた。孫権はそれを受け、翌年十月に黄武という年号を建てた。呉国の誕生である、したがって孫権の在位はこの黄武元(222)年にはじまる。呉の大帝孫権の在位は222年~252年である。
 黄龍元(229)年、夏四月、武昌の南郊で皇帝の位に即(つ)く。同年の秋八月に建業に遷都する。
 遷都したばかりの建業は卑小で、壮麗な宮殿とは程遠い都であった。孫権は役所やそれに付随した建造物に住んだ。時を重ねて建業は美麗で享楽的な貴族文化に満ちた威容を備えて行く。
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写真左上、文字が切れてしまったが、石頭城の文字、見えるでしょうか?
平凡社「アジア歴史地図」より。
 
 ここからは少しばかり専門的になりますが、退屈な方は読み飛ばしてください。
 赤烏八(245)年秋八月、校尉の陳勲に、屯田兵や工事に従事するもの三万人を率いて山中の句容(こうよう)に中道を穿たせた。小其(しょうき)から雲陽の西城にまで至るもので、商人の往来や品物の運搬に利便をもたらし市が賑った、邸や閣(たかどの)を作った。
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句容市は今の江蘇省
雲陽は今の江蘇省、鎮江市丹陽市です。
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   江蘇省鎮江市丹陽市の孫堅(呉の武烈皇帝)の墓
 
 グーグル地図の赤○で囲った金壇市は昔、仙人が住んでいたところだとか、秦の始皇帝が金陵かせ立ち昇る王都の気を断ちきらせるために、宝を埋めて『埋金碑』を建てたところだそうです。宝欲しさにみんなして山を掘り返したために、王都の気がずたずたに断たれたそうです。「始皇帝死してなお人を使役す」という辣腕ぶりに笑ってしまいます。
 
 赤烏十(247)年春二月、孫権は南宮に引っ越した。同年三月に孫権が住まう太初宮を改修することになった。諸将や州郡の役人たちはみな率先して労力を提供した。この改修には孫権の意向で武昌宮の柱や瓦が使われた。臣下は武昌宮も作られて二十八年もたっているので柱も腐り朽ちていますので山から木を伐り出しなさいますよう進言したが「大禹は宮室を質素にした……」といって退けた。
 
※建康宮殿簿によれば太初宮の中に神龍殿がある。県を去ること三里。左太冲(思)の『呉都賦』にいうところの神龍の華殿に抗うとあるはこれである。赤烏殿は県の東北五里にある。
 
 太初宮の改修は赤烏十一年春三月に完成した。
 
孫亮伝に曰はく「五鳳二(255)年冬十二月、太廟を作る」と。
孫皓伝に曰はく「甘露元(265)年秋九月、西陵督の歩闡(ほせん)の表に従い、都を武昌に徙す。寶鼎元(266)年冬十二月、都を建業に還(もど)す。二年夏六月顕明宮を起こす。冬十二月、皓これに居を移す」と。
※太康地記に曰はく「呉に太初宮あり、方三百丈、権起こすところなり。昭明宮、方五百丈なり。皓作るところなり。晋の諱(司馬昭)の故に顕明と名づく」と。
 呉歴に云う「顕明は太初の東にあり」と。
 江表伝に曰はく「皓、新宮を営むに二千石以下はみな自ら山に入り、木を伐るのを監督した。また諸營を破壊して大いに園囿を開き、土山、楼観を起こし伎巧を究極す。工役の費は億万をもって計(かぞ)える。陸凱、固く諌めるも従わず」と。
 
宋書禮志に曰はく「孫権、始め武昌および建業に都するに郊兆を建てず。兆は末年の太元元(251)年十一月に至って、南郊を祭る。その地は今の秣陵県の南十余里の郊中がこれなり」と。また曰はく「孫権は建業に兄の長沙桓王策の廟を朱雀橋の南に建てた」と。
 子の孫亮が代わって立つと明年の正月に宮の東に権の廟を立てて太祖廟と言った。孫皓は父の孫和を追尊して文皇帝とといい、寶鼎二(267)年、廟を京邑(みやこ)に立て、号して清廟といった」と。
 
 ※郊兆
 郊外にたてた祧廟(ちょうびょう)のことで、兆は四親廟以外の遠い関係のもので、 遠廟をいう。
 
 ※兆
 墓地。四郊に設けられた祭壇
 
建業は西晋最後の皇帝愍帝(びんてい)鄴の諱により、建康と改名される。
優美な六朝文化を培った建康の変貌については長くなるので、またの機会に。
 
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 江蘇省南京市の燕子磯。
 風光明媚ですが、歴代王朝の戦場となった場所でもあります。
 
 写真はすべてグーグルmapより借用。