丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記三十 孫権の都、建業について 上
呉から秣陵(まつりょう)へ
孫権(字は仲謀)の兄、孫策(字は伯符)が建安五(200)年に死んだとき、かれらの版図はただ、会稽、呉郡、丹楊、豫章、廬陵あるのみだった。しかもこの勢力圏は山深くて道は険しく、山地に住む者たちはいまだに服従しない。目を転ずれば天下に英雄豪傑が割拠していた。
孫策のもとに身を寄せていた賓客や避難民たちは、不安にかられて離れて行き、いまだに君臣の固めはない。周瑜(しゅうゆ)と張昭らは孫権に、ともに大業を成そうではないかと言った。それゆえに権は心から彼らに従った。
曹操は権を表して討虜将軍、領会稽太守、屯呉、使丞之郡行文書事とした。
わずか十九歳で兄、孫策が残した軍団、いわゆる軍閥を受け継いだ孫権はその二年後の建安七(202)年に、生母である呉氏を失う。呉氏は騒乱の世にあって孫策、権兄弟のよき後見人であったから、その痛手は大きい。その翌年にはよき補佐役だった母方の叔父、呉景が死んだ。しかし、君臣一体となった方針は着々と彼らの勢力を拡大していく。
余談であるが翊は美男で、といっても美意識は国民性と時代によってずいぶん異なることを考慮しなければならないが、ともかく男ぶりがよくて文武の才にすぐれた漢(おとこ)で、孫策に実によく似ていた。孫策臨終に際して張昭は孫翊を呼ぼうとしたが、孫策は首を縦に振らず、権を招かせ自分の後継者としたという。
この年、荊州牧劉表が死に、その衆を得て形勢はなはだ盛んな曹操と赤壁に戦い、勝利した。逃げる曹操をおって劉備と周瑜は南郡に至った。曹操はついに北へ帰ったが曹仁、徐晃を江陵に留まらせ、樂進をして襄陽を守らせた。
以上が、秣陵に拠点を移すまでの孫権をめぐる情勢である。
建安十六(211)年、孫権は治所を呉から秣陵に移した。
江表伝によると、張紘が孫権に勧めたのだ。「秣陵は楚の武王が置いたもので金陵と名付けました。地勢は岡阜が石頭にまで連なっています。故老に訪ねると『昔、秦の始皇帝が会稽を東巡したときにこの県を通った。望気の者が云ったのです。『金陵の地形から王者の都邑の気が立ち昇っている』と。故に列なる岡を掘断して秣陵と改名したと申しまております。今、地形はそのままつぶさに揃っておりますし、地からその気が立ち昇っております。天が命ずるところでありますゆえ、ここを都邑となさいませ」と。
孫権はふむふむと頷きながらも聞き流したのである。治所である呉郡(江蘇省蘇州)は古の呉の都である。大城は闔閭(こうりょ)が作ったもので周囲四十七里二百一十歩二尺と記される。ずいぶん大きな城である。ここからいざのときにはあちこちへと繰り出していたのだから、日数がかかってしょうがない。
劉備が東方へきたときに秣陵に宿った。周りの地勢を観察してまた孫権にここに都をおくように勧めた。「智者の思いは同じじゃのう」と、ついに孫権は秣陵に治所を移したのである。翌十七年には石頭に城を築き、秣陵の名を建業と改めた。
といってもまだ、建業が都と定まったわけではない。
上の写真は河南省洛河市の受禅台遺址
写真下は受禅の三絶の碑亭
以上のことからわかるように秣陵は都ではなかったわけである。八月には武昌に城を築いている。といって、武昌に城がなかったわけではない、県城を大規模に広げたものと思われる。この年の五月、建業に甘露が降ったとあるから、建業もまた一拠点として機能していたものと推察される。ここで甘露の記載が出てくるのは「王者の都邑の気が立ちのぼっている」ことを暗示するためである。
黄龍元(229)年秋九月、建業に遷都した。
ここにはじめて都としての建業の歴史がはじまるのである。遷都した当初はこれまでに作られた府寺(やくしょ)をそのまま利用したとある。
以上、
下に続く。
Wikipediaに建業および建鄴、建康がなかったので、
手持ちの史料で書き留めておこうと思ったのですが、意外にも手間取ってしまいました。
※写真、地図はすべてグーグルマップから引用しました。