丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十三

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十三
 
 揚州男児は血の気が多いともっぱらの評判である。が、これは美辞麗句といわねばならぬ。
 「牽牛流れて揚州となり、さらに分かれて越国になった」と、とある天文の書にある。
『周礼(しゅうらい)』によれば「(都の)東南を揚州という」とある。
 揚州の気は躁(さわ)がしく勁(つよ)い、厥(そ)の性(さが)は振る舞いが軽々しいといわれている。また、「江水、風波揚がる」から、揚州と名付けられたのだともいう。
 昔、江南の蛮夷を伐ちに出かけた周王が、蛮夷に連れ去られたまま二度と再び戻って来なかったせいも手伝ってか、江南は野蛮な土地と思われていた。男どもは怠け者であまり働かない。もっともあくせく働かずとも天然の恵みのせいで食っていける。土地は卑(ひく)くじめじめしている、夏は炙られるような炎暑で衣など着ておれぬが、悪いことばかりではない。江のほとりには食味が大麦に似た実をつける草が、種を蒔かずとも群生するのだ。しかも水産物に恵まれ、金や銅の鉱脈が走っているのだから、なんとも豊かな土地である。
 
 豫州の沛国の南部と徐州の下邳(かひ)国は隣り合っていた。かって孫堅は下邳の丞であった。彼は公正明大だったから人望があった。黄巾の乱のときは揚州出身の中郎将、朱儁の佐軍司馬としてめざましい功を立てた。その後、涼州の辺章、韓遂の反乱の鎮圧に加わった。長沙で区星という者が衆万余人を集めて反乱したときは、長沙太守を拝命し、この乱を鎮圧にあたった。これらの功により、堅は烏程侯に封ぜられた。
 義旗が興ると熱い思いに駆られた孫堅もまた義兵を募った。この頃の孫堅は孟徳より数歳年下の三十五、六歳、男して油がのりきった年頃である。義兵を率いて北上したが、南陽についた頃には衆は数万に膨れ上がっていたからたいしたものである。数万の衆を養うには各地で食糧を調達する必要がある。彼らに協力しない太守を次々に殺しながらの行軍であった。南陽太守の張咨もまたしかりである。堅は南陽から東北に進み魯陽にいた術と対面した。術は孫堅を破虜将軍、領豫州刺史に任命する。南陽太守はすでに孫堅に殺されていたので、袁術は戸口数百万という大郡、南陽郡に入り、この南陽を根拠地にした。
 負け知らず孫破虜将軍と敗軍の将である孟徳。指揮官の細い目に冷やかな色が浮かんだ。孟徳は猛禽の類になった。すばやく鋭いくちばしはその軽蔑をついばんだ。夏侯惇があっと思った瞬間、孟徳の馬鞭が唸りをあげて指揮官の馬の尻に食いつく。馬は棒立ちになり、指揮官を振り落として暴走した。幸いなことに指揮官は軽い怪我で済んだ。指揮官に張り付いて夏侯惇が宥めたので事なきを得たが、兵士の面前で恥をかかされた指揮官の胸の内まではわからない。
 「気になさるな。たかが田舎者のたわいないお国自慢じゃよ。身びいきというやつさ。赤い毛氈の帽子を被った猪武者孫文臺(堅)を『よか男』ともてはやしよるが、世間というものを知れば、わしらの曹将軍に惚れ込むわい」
 夏侯惇は屈託のない笑顔を孟徳にむけた。
「おお。気にしないさ。後で奴とは杯を交わそう」
 孟徳は天を仰いで豪快に大笑した。
 
 つづく