丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記 三十三  孫堅は丞であった

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 三十三
              孫堅は丞であった
 
 三国志巻四十六の「呉書」一の『孫破虜討逆伝第一』孫堅(字は文臺)の列伝である。列伝に孫堅は塩瀆(えんとく)、盱眙(くい)、下邳(かひ)の丞になったとある。  
 どうも腑に落ちない。ずいぶん考え込んでしまった。ここで私の筆がとまり、頭をかかえこんでしまったのである。
 雑記には歴史のこぼれ話や、ここは是非とも知っておいてもらわないと、この時代の雰囲気や事件の背景がわからないという点を説明するという姿勢で臨んできましたが、今回は専門的なことを書かねばならなくなりました。それというのも、中国史の学究の徒ならば、後漢の王国に「丞」などという官職は存在しないことを御存じだからです。
 にもかかわらず、「呉書」は孫堅は丞であったと記す。
 下邳は郡ではなく王国である。皇子が封ぜられた土地であるが、王は政を行わない。前漢の景帝のときに起きた呉楚七国の乱で漢朝は土台を揺さぶられた。この乱に懲りて朝廷は諸王から統治権を奪い、朝廷から派遣された「内史」に民を治めさせた。この「内史」は成帝の時になって省かれ、これまで王国に置かれていた丞相の官名を「相」と改め、相に民を治めさせた。さらに王の傅(も)り役である太傅の官を改めてただの「傅」とした。「傅」は王に道を誤らないように善導する役目の官で、相も傅も王の臣下ではない。しかも国からあがる税収は相に押さえられ、その何割かを王家が受け取るのである。
 郡ごとに太守一人、二千石を置く。丞一人をおく。この郡が辺境の場合は丞のかわりに長史を置いた。これは建武六年三月に郡太守、諸侯相が病気の場合は丞、長史に民を治めさせた。十四年に辺境の郡太守の丞をやめて、長史に丞の職をも統べさせた。
 列侯は漢の武帝以前には徹侯と言っていたが、武帝の諱を避けて列侯と改めた。列侯は家臣として家丞を置くことができた。
 ところが孫堅が丞であった塩瀆は廣陵郡、盱眙と下邳は下邳国でいずれも徐州に属する県である。
 郡の属官として県、邑、道ごとに大きなものには長官として「令」一人、千石を置き、その次の長官は「長」といい四百石、小さなものの長官も「長」で三百石を置いた。辺境の県は例外で、数百戸でも「令」を置いたりしている。
 蛮夷を統べる県を「道」といい、公主の食する湯沐(とうもく。化粧料のぐらいの意味)を邑という。万戸以上の県には「令」、それに満たない県は「長」を置いた。
 県にはおのおの丞一人、大県には尉二人、小県には尉一人を置いた。
 
 後漢書の職官志を読んでみて、ようやく孫堅が県令もしくは県長の属官である丞だったらしいと気がついた次第である。
 丞という漢字は「長官の下役」という意味をもつ。
 丞掾(じょうえん)の意味も、長官の下役である。あまり深く考えずにさらりと流せばよかったのに、長い間躓いたままだった。で、更新もできなかったのだから全く、嫌になってしまいます。
 
 ※塩瀆県
  現、江蘇省塩城市 現在の地図では海から数十キロメートルほど遠ざかってしま  ったが、後漢時代の古地図では海のほとりにある。
 
  盱眙(くい)県
  現、江蘇省淮安市盱眙県
  
  下邳(かひ)県
  現、安徽省邳州市