丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十四

           丁夫人の嘆き(曹操の後庭)八十四
 
 物知りと言われて曹操の族子である休は少年らしく顔を赤らめた。休の母はまるで自分が褒められたように胸をはる。この母は一人息子の休に影のように寄り添い、どこまでもついて来たのだ。
 「はい。なんでございましょうか?」
 休はちらりと卞娘の兄をみた。美貌の血筋らしい、兄もまた端正で華やかな目鼻立ちである。
「覇王項籍は莫大な財宝に恵まれていたのだろうね」
 ため息まじりに問う。
「そりゃそうですね。なにしろ関中に入ったとき、秦の咸陽の宝をそっくりそのまま手に入れておりますし、始皇帝の陵を荒らして財宝を奪いましたからね」
「その財宝は……」
 卞娘の兄の声が上ずる。
「およしなさい。お兄様たらさもしいことはよして」
 卞娘が兄をにらむ。
 やがて荷馬車は小さな土盛りの前で止まった。
 「荒れた墓だね。これじゃ誰の墓だかわかりゃしない」
 呆れたように卞娘が立ちつくす。
「そりゃそうだろう。考えてもみろ。恩賞にあずかろうと強者(つわもの)どもが項籍の屍を奪い合って五つに分けたそうじゃないか。そんなに混乱したのだよ。虞姫もよう、墓をこさえられただけで十分じゃないか?」
 卞娘の兄は言い終わらぬうちに土盛りの上にのぼった。
「なんてこった。先を越されたぞ、みろよ。穴だらけじゃ」
 不謹慎な叫びをあげる。
「兄さん。およしなさい。みっともない。だから嗤われるのよ、卑しい家の出だと」
「お偉い家門の袁紹袁術でさえ、軍資金稼ぎと称して片っ端から墓を暴いとるぞ。世の中、きれい事じゃ済まねぇ、おまえの殿様だってやっていることだよ」
 我感ぜずと腹ばいになって盗掘穴をしきりにのぞきこんだので、少年たちは顔を見合わせてくすくす笑った。恥ずかしい思いもしたが、卞娘にとって物見遊山も相半ばした旅である。
 
 狼の吠える声はさっきよりも近い。今夜も火を絶やさず交替で寝ずの番だなと思った瞬間、揚州兵の幕舎から女の悲鳴があがった。ついで、罵り騒ぐ男たちの声が女を追う。
 「ちっ。やつら、群盗そこのけで略奪しよる」
 夏侯惇が眉をしかめる。
「借り物ゆえに遠慮があって軍法で処分できぬが、軍法で裁けば腰斬りばかりじゃのう」
 横になって星を仰いでいた孟徳が、弾かれたように起きあがった。
「元譲(惇)よ。耳を地べたに押し当ててみよ」
 孟徳の言葉にあわてて淳は耳を地面に押し当てたが、これまた弾かれたように起きあがった。
「賊の侵入だ、狼が吠える方角から物音が響く」
 小声で言うと、孟徳は少年たちに目配せした。少年たちは幕舎の裏手にまわり、よその幕舎へ知らせに走った。
「元譲よ。弓を取れ」
「心得た。あれは女たちを取り戻しにきたのかのう?」
「いいや。盗賊じゃ。女どもも仲間じゃ。狼の声を真似て連絡をとりあっていたのじゃ」
 孟徳がなおも囁く。
「なるほどねぇ。奴らの動きを読まれての作戦か。狼の吠え声といいそれに答える女どもの叫びといい、油断ならぬ賊じゃ」
 惇が弓を構えた。
 すでに火を放たれた揚州兵の幕舎は炎を吹いていた。
 
続く