丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十五

             丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十五
 
 「来い」
 曹休は少年たちを振り返ってあごをしゃくると、彼方の兵士たちの幕舎へ走った。その後を子脩が追う。少年たちが二人を追って星月夜の中を走った。
  
 すでに休が叫んだ、敵襲を告げる鼓が、子脩の心の臓にあわせるかのようにせわしなく響いた。曹一族の年長者である休を追いかけながら、ふと子脩は、俺は永遠にこの優れた族兄のあとを追うのではなかろうかと思った。子脩の頭上に輝く北斗のまわりを巡る名もない小さな星のように。胸が疼いた。私が文烈(曹休の字)のような少年だったら、父上はまぶしそうに私を見ただろう。私の生みの母が人に語れぬ家柄ゆえに……そのような女々しい思いは捨てよう、私を我が子として育てた母上のために。母上は私を富貴の家の子にふさわしく躾たではないか。
 あたりをつんざく唸りに子脩は我に返った。鏑矢(かぶらや)である、敵を脅すために工夫されただけあって、丈夫(ますらお)の意気を削いであまりある轟音である。思わず首をすくめた。その瞬間、鏑矢が一陣の風とともに猛禽のように子脩の頭上をかすめた。
 「大丈夫か、子脩」
 休が駆け寄ってきた。
「おお。どうってことないさ」
「おや、おや、そうかい。尿(ゆばり)をもらすなよ」
 休の手がすっと無防備な子脩の股間にのびた。
「あっ。何する! よせやい、ひどいよ」
 身をよじり、あわてて子脩は休の手を払いのけ、両手でおのれの股間をかばった。
「あっはっは、あっはっは。お主の急所、縮み上がってたぞ」
 いっぱしの大人気取りで休は笑った。
 そういえば休の口の周りの産毛は目に見えて濃くなり出した。無意識のうちに子脩はおのれの顎を撫でていた。ぽつぽつと剛毛が混じっている。
「可愛い奴だ、子脩はからかいがあるぞ。えっへん、総じて言えばのう、はじめは誰でも尿をもらしよる。そうやって嘴(くちばし)の黄色がとれ、百戦錬磨の武者になるらしいのう」
「そんなものか……」
「おお、そんなものさ。都育ちも同然の子脩にはわかるまい」
「都育ちで悪かったのう」
「女のように拗ねるな。俺は子脩の親父殿にお主を弟と思うて野性の知恵を仕込んでくれと頼まれたのじゃ」
「……」
「わしらは子供のうちから狩りで戦法を習う。騎馬、野営、獣との格闘、大蛇も相手せにゃならんのよ、気味が悪いぞ。親父殿はお主が上品すぎると心配しとるわ」
「俺が上品すぎる?」
「ああ、博士になるのかのう、子脩は」
 口をとがらせたままの子脩の背中を休はぽんと叩くと、またもや走り出した。
 
 「賊だっ。賊ですぞ。本陣に集まれっ」
 休たちは叫んで回った。
 おおっと頼もしい答(いら)えが返ってくる幕舎もあれば、泣きながら女子供が飛び出してくる幕舎もある。
 「泣くな。泣くでないっ!」
 休が叫んだ。
「どうすれば……」
 かぼそい女の声がして、女は休に取りすがる。
「放せ。みなが見ておろうに」
 休は女をふりほどいた。
「ごらんよ」
 女のふるえる指先が休の背後を指し示す。
 子脩たちはあっと一様に息を呑んだ。揚州兵たちの幕舎が燃えていた。その周りを黄色の布で額を包んだ男たちが悪鬼のように蠢(うごめ)いていた。
 「黄巾の賊だろ? あたいたち、捕まったら売り飛ばされるんだ」
「馬鹿! ぴいぴい泣くな。助かりたけりゃ、俺の言うことを聞け」
 休が怒鳴った。
 
  
 続く。