丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十八
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十八
胡三明が唸ったのも無理はない。
その一は長安西郊にある杜陵(とりょう)から漢中に入る子午道(しごどう)である。その二は渭水(いすい)にそってそのまま西へ行き、斜谷(やこく)を抜けて漢中に進む斜谷道(やこくどう)である。この道はまたの名を褒斜道(ほうやどう)ともいう。その三はさらに西へとすすみ、司隷校尉部の右扶風(ゆうふふう)に属する陳倉(陝西省宝鶏市)から秦嶺にわけいり、東へと逆戻りして漢中にはいる陳倉道である。いずれも秦嶺山系を上り下りする険しい道だ。それでも漢の高祖は秦嶺を越えて漢中に入り、漢中王になった。漢王朝の名はこの漢中にちなんだものだ。
漢中から成都までは金牛道が通じている。
陝西省漢中市の嘉陵江 この川が剣門関へと流れる。
陝西省宝鶏市 紅河谷 四嘴山(秦嶺山系) 褒斜道
陝西省宝鶏市 紅河谷 四嘴山(秦嶺山系) 褒斜道
陝西省宝鶏市 褒斜道 秦嶺山中を通過するが道路が開通している。
陝西省宝鶏市 紅河谷 四嘴山 崖にかかる桟道 褒斜道
「なんじゃ、こりゃ」
黄龍とふざけていた火炎の術を使う石が頓狂な声をあげた。豆の莢(さや)のような物が術者の掌で黄金色に光っている。たちまち術者はみなに取り囲まれた。黄金の繭だ。
「これは……。死人が黄泉で困らぬように墓に入れるものだ」
三明は呆れたように顔をしかめた。
「易者さんよ。おまえさまは身を清めて易者になりきっておるわい。きれい事で渡れる世の中ではないぞ」
石が片目をつぶって笑った。
「曹将軍ははしこいぞ。兵士を指揮して墓ばかり暴いとる。洟垂(はなた)れ小童の呉が、白玉の葬玉を得てほくほく顔じゃぞ」
幻術使いの宋が呆れたような目で三明をみた。
「気にするこたないさ。どこの御大もやっとることだ」
「……お頭は悪いことはしてはならん……」
三明は顔を赤らめた。耳目の長である李まで墓荒らしに荷担したのかと思うと心中穏やかでない。
「わしらのお頭は……」
幻術使いの宋が声を潜めてあたりを一瞥した。荊州の国境の水辺である。彼方には家鴨の群れと水浴びする子供たちの姿が望めた。
「心配するな、誰か近づく者がおれば黄龍が吠える」
石がじれったそうに先を促す。
宋はなおも小声で続けた。
「太平道の王国を作ることかい? 大賢良師の志を継ぐというのか?」
火炎の術者が頬を紅潮させて宋の肩を揺さぶった。
「いやそこまでは……」
「ちぇっ。とんだ大望だぜ」
石がそっぽを向いた。
「洛陽にいた頃、戦のないところへみんなを連れて行きたいとお頭は言われた。あれは大望というべきものか……」
三明は首をかしげた。
「この乱世じゃ、みなが戦のない地に逃れたいと思うておる。逃げても安全ではない。ならば逃げるか、戦って戦のない国を作るかのどちらかでしょう。わたしたち、巡り合わせが悪いのさ」
三娘が吐き捨てるように言ってのけた。
「見てくれ」
火炎の術者の石が黄龍の首輪を指し示す。
革の首輪がほころびて真綿がはみ出している。術者はほころびを指でまさぐり、金の繭を三つと帛(きぬ)の切れ端を引き出した。帛には「困ったときには使え」と漆で書いあった。
「お頭……」
石が声をつまらせた。これには幻術使いたちも短剣使いも、みんなして思わず涙を流してしまった。
とりあえず黄金の繭は黄龍の首輪にもどしてほころびを繕った。お頭はこんなにも心配してくれているのに、わしらときたら、あれやこれや思い悩むだけで工夫を凝らさなかったと、心を奮い立たせた。
江賊にも太平道の信徒はいたはずである、太平道の呪符をちらつかせて「知り合いの船頭を捜しているのじゃ。この守り札を見せると願いが叶うと言われた」と、江水沿いの村々を訪ねながら西へと進んだ。役人に告げ口されない自信はあった。どうせ、後ろ暗い生業のものたちである、役人とは相容れないはずだ。
続く
写真はGoogleマップから引用いたしました。