丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十九
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十九
《あらすじ》
天下は董卓の悪逆非道に憤激し、こぞって義兵をあげた。推されて義旗の盟主に立てられた袁紹は河内によった。その他の主な勢力は南陽の袁術、酸棗に拠った陳留太守の張邈(ちょうばく)などであるが、曹操は無二の親友である張邈を頼って酸棗の義軍に合流した。
勇ましく旗揚げしたものの、諸将は董卓を恐れて戦おうとはしない。毎日、集まっては宴会で口ばかりを戦わせていた。
酸棗に集った衆は十万、食が尽きれば散っていくのはあきらかだ。曹操は天の利を失するのを恐れた。しかもまずいことに董卓の支配が長引けば長引くほど、彼の支配は盤石のものとなる。「子供の天子はもともと董卓が即位させたものだ、宗室の賢いものを天子に擁立すればよい」と考えていた袁紹などは、「天子は霊帝の子ではない」と、いかがわしい噂を流す。
曹操に従っていた博労の李こと、曹操の耳目(じもく。密偵)の長である李順は、黄巾の仲間だった成都の商人朱に届けものをするために、胡三明や胡三娘たちを益州へと出発させた。益州への陸路は董卓の勢力圏である。水路は江賊が掌握していた。江水を遡って巴郡(重慶市)に至り、そこから成都に入れないものかと、荊州で
その手だてを探っていた。
四川省広元市 葭萌関
荊州の江水ぞいの村はどこもが、北から移動してきた避難民でごったがえしていた。荊州牧である劉表の評判をきいて襄陽へ移動するものや、じめじめとして暑いが、水陸の物産に恵まれて食うのに困らぬ揚州へ行くもので往来はにぎわった。
占いましょ
占いましょ
禍福はあざなえる縄よ
喜びも苦しみも
永久(とわ)に続かぬ
祟り神 祓いましょ
厄神 祓いましょ
禍夢(まがゆめ)祓いましょ
「おや。黄龍じゃないか? こんなところでおまえに会おうとはね」
三明の背後で女の声がした。
「だれだい? おまえさんは」
三明が振り返った。藁であんだつば広の帽子をかぶった、三十前後のやせた農婦だ。
「おまえ、ずっとわしの後をつけてきたな? なんの用だい?」
それには答えず女はじろじろと店の中をのぞきこんだ。こんなときに吠えて追っ払ってくれたらよいのだが。肝心の黄龍は少しも吠えない。
「綺麗だ、巫女には綺麗なのがそろっているが、おまえさんはほんと綺麗だ」
女はにこにこ笑いながら三娘を眺めまわす。
「うちはちゃんとした占いの店だ。わしの妹は巫女だが色は売らないよ、さっきからじろじろ、一体何だね。用が無いならさっさと帰ってくれ」
三明は女を睨みつけた。
「おやおや、私にそんな顔していいのかね」
「おまえ、ただの農婦じゃねぇな」
「病気治せるかい? ほら、呪いを書いた札を飲ませて病気を治すあれだよ」
「それはご禁制じゃねぇのかい? わしらは黄巾とはなんの関わりもねぇ。病気なら医者に行くことだな」
三明は冷たく言い放った。
「見たのさ、どこかで見たよ。おまえさんたちを」
女はなおもじろじろと三明と三娘を眺めまわす。
「他人の空似じゃねぇのか」
「しらを切るとはねぇ」
言うが早いか、女のから光が流れ出た。
「おっと、いけませんぜ」
「痛いじゃないか。手加減をおし。博労の親方は元気かい?」
女がニッと笑った。
「手加減だって。物騒なものを振り回したのはそっちの方じゃないか。兄さんにもしものことがあれば、生かして帰さないよ」
三娘が匕首を拾い上げると女の頬に押し当てた。
「やだね。私だよ、雒陽の妓楼で琴を弾いていた月華だよ」
三明たちは月華をまじまじと見返した。
「月華姐さんだ」
三娘が手を叩いて笑った。
「姐さんもずいぶん変わったね、長い裾を引きずっていた姐さんが農婦みたいに顔を汚して……」
「それにしても手荒い挨拶だ」
「そうでもしないと正体を現さないのだから。昨日から三明の様子を窺っていたのに」
月華はまたもやにいっと笑った。
続く。
写真はグーグルマップより拝借しました。