丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十
「奇遇だよう。天の端っこに流れ着いたと思ったら都の知り合いに会えたのだから」
月華姐さんの声が踊った。
「姐さんこそどうして荊州の田舎に?」
胡三明が不思議そうな顔をした。
「話せば長くなるよ。お前さんたちこそどうして? やはり襄陽へ行くのかい?」
「うーむ、どうしたものかのう?」
三明は腕組みをしてみせた。
月華は鼻の付け根に皺を寄せて笑った。微妙な、じつに微妙な心の揺れを三明は嗅ぎ取って、ちらりと三娘をみた。三娘もやはり微妙なものを嗅ぎ取ったらしい、おやっというように眉を跳ね上げた。
「そうさ、天子の力が及ばぬ土地には、土地の有徳(うとく)の掟がある。天下を動きを睨んで有徳の者がどの勢力に与するかを決めなさる」
「ここらは江賊が支配すると聞いた。姐さん、有徳の者とはやはり江賊かね」
「賊なんていないさ。生きるために力を合わせているだけさ。ま、立ち話もなんだ、おいで。長旅でろくなもの食っていないのだろう? 山海の珍味と言うわけにゃいかないが、
獲れたての魚の膾(なます)に鼈(すっぽん)の羹くらいは造作無いよ」
「そりゃうれしいね。腹の虫が催促するじゃねぇか」
三明が嬉しそうに笑った。
「さぁ、ついて来なよ」
浮き浮きと月華姉さんは先に立って歩き出した。
「黄龍、おいで」
三娘は黄龍を呼んだ。
「あっ、黄龍はいけない。置いといて。うちのお姑さん、大の狗嫌い」
三娘はしゃがみこんで黄龍の首をだいた。
三娘は済まないというふうに肩をすくめた。
「そうかい、じゃ仕方ないや。連れておいでよ。ただし吠えたり噛んだりしないよう口輪をはめ、紐で繋いでおくれよ」
月華はくるりと背をむけると足早に歩き出した。
村はずれの江水の岸に来ると、月華はぴいっと口笛を吹いた。すると、いかにも悪党面をした男が五人ばかり、屋根付きの小舟からぬうっと顔を突き出した。
「客人をお連れしたよ。館まで急いでおくれ」
月華姐さんはにいっと笑った。
続く。