丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十一

             丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十一
 
 
 船は江水をさかのぼって行く。屋根がついているのがありがたい。うれしいことに江を渡る風は涼を含んでいる。黄龍は三娘の足下にうずくまり、耳をそばだてていた。
 さきほどから掌(たなごころ)で胡桃を転がしていた男が顔をあげた。眉間の刀傷がてらてらと光り、悪党面に凄味をそえている。
 「姐さんも物好きだねぇ」
 悪党面に薄笑いを浮かべた。
「お黙り。おまえは腕っ節はともかく、血の巡りが悪い。お館様の深慮遠謀などわかるまい」
 月華が叱りつけた。
「この男を連れてくるのに三日がかりですかい? あっしに言ってくれりゃ小半時もかかりゃしねぇ。即座に縛りあげて担いで来まさあ」
 ばりっ。男の手の中で胡桃の殻が砕ける音がした。
「ちっ、ちっ。またやっちまったぜ」
 男は砕けた胡桃の殻を胡三明の鼻先につきだした。敵意を感じ取った黄龍が低い唸り声をあげた。
黄龍、お黙り」
 三娘が黄龍の首を抑える。
「ふん」 
 男は胡桃の殻を江に投げた。そのとき船が揺れた。巨大な魚が水面(みなも)に顔をだし、水に消えた。
「江水の神だ」
 男がつぶやく。
「地回りの寝言は一昨日(おととい)にしな。江水の神様も胡さんを歓迎していなさる。邪険にするのはおまえだけだよ。おまえ、私につっかかるのかい?」
 月華が睨みつけた。
「姐さんやお館様にゃ、切っても切れぬ縁(えにし)がありまさあ」
「ならば客人を大事にするのだね。この方は曹将軍の部下だ、密命を帯びてこの地に入ったのだよ」
 月華の言葉に三明と三娘は顔を見合わせた。
「違うよ、姐さん。そりゃ違う」
 三明はきっぱりと否定した。
「そうかい。……言っとくがね、俳優(わざおぎ)のような優男(やさおとこ)だが、胡さんは武術の手練れ、経穴(けいけつ)を突かれて黄泉へ行きたい奴は誰だよ」
「ちっ。姐さんの都贔屓が始まりなすった。都と名がつきゃなんでも有難がる」
「ふん」
「曹将軍とやらを贔屓(ひいき)しなさるが、命あってのものじゃ。負けた将軍よりも負け知らずの将軍がよい」
「この漢朝を興した高祖は負けたことがないかい?」
「姐さん。わしは孫破虜(孫堅)はよか男じゃと言うのじゃ。お館様にこのわしの胸の内、伝えてくだされ」
「お館様は、江の一隅で四海の動きを読んでいなさる。天命の帰すところを計っておいでじゃ。邪魔立ては許さぬ」
「丈夫(ますらお)は楚の男の子に限る」
「曹将軍も楚の国の者、沛(はい)国費亭の人だよ」
「……」
「楊兄貴。孫破虜の行くところ略奪と殺戮だぜ。俺には義旗を掲げた群盗にみえてきやがる」
 痩せた若者が白い歯をみせて笑った。
「おう、石よ。戦とはそういうものじゃねぇのか? 命を張る、命を張るからにゃ見返りがなくちゃならねぇ。そうだろ? 姐さん」
「いやだよ、おまえ。お館様はおまえたちを群盗で終わらせないよ」
 月華は遠い夏雲に目を向けた。
「群盗?」
 三明は眉を跳ね上げた。
「おっほっほ。あんたたち義旗も似たようなもの。お上も曹将軍も私たちのご同類」
「江賊の一味か……」
 行く手に一条の光明が見えた。三明はにっと笑った。
 
 船はとある船着き場に着いた。商船に混じって櫂を左右に突き出した大小さまざまな戦艦が停泊していた。
 「妙だな、ここはどこだ?」
 三明は首をかしげた。
「驚いたかい? お上のものじゃない、お館様の船着き場さ」
 月華が笑った。
 月華の夫は一州の長官にも等しい力を持っているらしい。
「しかし、変わった船だ」
「戦船(いくさふね)だからね、漕ぎ手を護るために厚板で囲う。櫂(かい)を使えば艪(ろ)で漕ぐ船より波風に強い」
「うーむ」
 三明はうなった。
「姐さんたら、ずいぶん大物に見初められたのねぇ。どんな人なの。若い? 年寄り?」
 三娘は目を輝かせた。
「さあね」
 よほど幸せなのか、月華はまたもや笑った。
 
 
 
続く。