丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十三

           丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十三
 
 
 なんとも人を食った対面だ。月華の奴、嬲(なぶ)るのもいい加減にせいっと、三明は眉をしかめた。
 「おほほ。苦い顔だこと」
 月華が袖で口を覆って笑った。
「幼馴染みじゃないか、そんな目で見ないでおくれ」
「当世じゃ義理人情は柳の綿毛か家鴨の羽毛、吹けば飛んで消えてしまう」
 三明の声は冷たい。
「……」
「姐さん。爪の先ほどでも幼馴染みを思う気持ちがあるなら、お館様が治めている水の上を無事に航行できる書き付けを下さらぬか?」
「そういうものはもともと無いのじゃよ」
 部屋の入り口で男の大きな声が響いた。
 声の主は恰幅の良い三十あまりの男である。彼はまず仮面の男と月華に一礼すると、三明に笑顔を向けた。
「やっ、これはこれは、趙国の胡三明と申す。そばに控えるのは妹の胡三娘、よろしくお見知りおきくだされ」
 三明が笑顔をむけた。三娘もしおらしく微笑む。
「私はこの土地のもので朱と申しまして、巴陵までの船の長(おさ)を勤める朱じゃよ。客人がたの命を預からせていただきますぞ」
 長(おさ)だけあって、ものの言い方も落ち着いていた。 ただの野人には見えない。。朱には威厳が備わっていたし、人柄にも品の良さがみてとれた。この男が「お館様」ではなかろうかと三明は見当をつけた。
「巴陵までの船の長……」
   朱の言葉を声に出してなぞってみて三娘は、はっと顔をあげた。
「巴陵へ行く船がでるのだ!」
 三明は膝を叩いて笑った。
「さようで。客人は本当に運がいい」
「月華姐さんもお人が悪うございますよ。そうならそうと言ってくれりゃいい」
 三娘が軽く月華を睨む。
「あんまり運がいいから少しからかってやらないとね」

 月華が笑った。
「ご存知かと思うが、江水はくねくねと曲がっていてまるで龍の姿そっくりじゃて。曲がりくねっているところが曲者でのう、水が多すぎりゃ洪水に苦しむ。かといって干上がれば大船が行き来できない。曲がりくねった所は龍の吐息のような霧が出て船長を悩ます」
「ほう、益州へ入るには水陸ともに難儀をきわめますな」
「そういうことじゃよ。日照りが続けば水深は浅くなり、巴陵の近くなどは水底までの深さはおよそ人の背丈ぐらいでさ。とてもじゃないが大船は通れない。船出するなら今だね。到着までの日数は水とお天道様次第ですぜ」
黄龍、揚州生まれの地狼の血をひく犬のことだが、一緒に乗せてくださらぬか? 道中の安全を守る神の犬だから、置いて行くわけにはいかぬ」
「よろしい。龍という名の犬が、龍の姿をした江水を遡るのだ、きっと江水の神も喜びましよう」
    朱はおおように頷いた。
 
 乗客のほとんどが商人だった。南方の奇貨を仕入れに行くのだそうだ。南方の奇貨がいずこからともなく益州に入ってくるのだという。
 董卓の乱で西域からの商胡の隊商が絶え、南海の海上交易も途絶えた今、南方の奇貨が入ってくるのはどの路だろうか?
続く