丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十四

             丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十四
 
 近づいては遠ざかる両岸の景色を、胡三明は飽きもせず眺めた。
  商人たちにはそれも見慣れた眺めなのか、さして心動かされた気配はない。甲板にもうけられた小屋で酒杯を重ね、夢のように壮大なもうけ話に余念がない。
     三明と三娘は小屋の外壁にもたれて景色を眺めていた。よほど黄龍のことが気になるのか、黄龍の首輪に繋いだ綱のはしは三娘の腰につながれていた。
   「雲が流れていくよ。あの崖、なんと高くそそり立つ崖だ。時の歩みはなんとゆったりしていることか」
  三明は目をとじた。
   「これはつかの間の幻です。世は乱世ですよ、巴郡(重慶市)についたら何が起きるかしれたものじゃない。腕が鈍らぬよう剣術の稽古をしますわ」
  ぴしゃっと言ってのけた。
「 えへへ。三娘らしいやね」
  短刀使いの許が笑った。
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    写真は長江三峡 湖北省宜昌市夷陵区
 
  幻術使いの宋も火炎使いの石もひひひと笑う。三娘は横目で彼らを睨むとすたすたと船尾に向かった。
  「すまん。怒らせちまった」
  許が済まなさそうに三明を見た。
  「気にするな。兄のわしですらまったく手に負えん。連れ合いを見つけてやろうにも、あれではのう」
 三明が頭を抱えた。
 「案ずるこたぁねぇ。選り好みしなきゃそのうち」
 宋が手元の白いものをぷっと吹いた。白いものは夫婦の蝶になって舞う。
  
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  写真は湖北省宜昌市 西陵峡の最も狭まった所
  
  いつのまにかまどろんだらしい。商人の話し声で目が覚めた。目覚めた三明は壁に背を預けたまま聞くともなしに彼ら話に耳を預ける。
    「……ご政道の乱れはわしら商人(あきんど)の邪魔ですなぁ」
      その声は荊州の玉を商う郭という商人に違いない。
 「さよう、さよう。天下太平で民が財を蓄えて奢侈にうつつをぬかすとき、わしらは大もうけできる」
     安という商人の声がする。安の先祖は安息国の出だ。安氏は漢に入朝し住み着いてしまった。この争乱でかれらは遼東へ逃れたらしい。かって砂漠を越えた血はいま、南方の交易路を求めて険しく狭隘な益州の山道へ向かおうとしているらしい。
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 写真は宜昌市 西陵峡
   
「南海の路が閉ざされて久しいが、わしら商人はこのままでは生きていけぬわ」
   王という眉の太い男の声がする。
 「南海との交易は自ら大船で異国まででかけて買い付けていたのか? 甘英が数年がかりでたどり着いた大秦国とやらに」
 江の統領と呼ばれる若者の声がした。この若者は算盤よりも書が似合う名門の貴公子といった風情がある。
「なんのなんの、あっはっは」
商人たちは笑い崩れた。
「なぜ笑う」
「よろしいかな、江の統領よ。いかに奇貨に恵まれたとしても、大秦までは数年かがりですぞ。命を張って地の果てまで行くのは蛮行ですぞ。交州の南の国には様々な国からの船が集まりますのじゃ」
  安の声が熱を帯びている。どうやらこの男は交州の南にあるという交易所に行ったことがあるらしい。
「わしらが行くのは交易所で、墨を塗りたくったような色の黒い者どもが住む国でございましてのう」
「ほう、墨を塗ったように黒いのか……」
「さようで。それらの国々は奇貨がもたらす富で栄えているゆえ、異国(とつくに)から来る人や船を大事にします」
「陸からは行くには、益州の西の険しい山越えになるらしいの」
「熱心でございますな。絵図に印までつけて」
「いやいや。わしらは百年の大計をもたねばならぬ」
「大計? この上なく栄えている家の子がまたなにゆえに艱難を求められるのか?」
 安の声は熱気を孕んでいる。
「天下が誰の手によって定まろうとも、そのときわれら一族は掃討される。天下相手に勝ち目はない。われらは南海の交易所とやらに移住して富み栄えようと思う。これも才覚ではなかろうか」
 江の統領の言葉に、三明ははっと胸を突かれた。あの若者、江賊の頭目か?
 三明は窓にへばりついて小屋をのぞきんだ。貴公子然とした江の統領は三明の視線に、涼やかな微笑を返した。
続く。
写真はグーグルマップより借用