丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十二

           丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  九十二 
 
 
 堤の上に上ると目に飛び込んできたのは、夏空を背にした朱塗りの楼閣だった。といっても楼閣までは距離がある。距離があるのに人目を惹きつけて逸らさないのだ。朱の鳥が翼を広げてまさに天空に飛翔せんとするような優美なたたずまいである。三明は楼閣に見とれたまま言葉がでない。
「月華姐さん。都を思い出してしまいましたよ」
 三娘は声を詰まらせた。
「きれいさっぱり灰になったらしいね、都は……」
  月華の声が湿った。
「姐さん。目を閉じると都がみえる、天上の世界のような都だったわ」
「……灰のなかから蘇る。あの土地は天から帝王の都という宿命を与えられた土地だ。なにが起ころうが必ず蘇るのだ。ときどき夢を見る。すっかり年老いた私は、都の城東門にもたれて門番を相手に昔のことを語る夢を見る」
 三明はきっぱりと断言した。
「兄さんがすっかり年老いる頃だなんて……」
 三娘はうつむいた。
 「……見事なものでしよう。あそこがお館さまのお屋敷で、あの高楼は鳳凰楼というだよ。遠くまで出かけても、戻ってきて堤の上に立って鳳凰楼をみるだろ? するとね、ああ、我が家に戻ってきたのだとしみじみと思うよ」
 「月華姐さん。まるで刺史か太守の府寺(やくしょ)みたいに立派だ。夫は何をなりわいに財を積んだのだ?」
 三明は月華をみた。
「ほっほっほ」
 月華は笑った。
 気位が高い月華の夫はどのような男だろうか?  群盗が行き交う世に、これみよがしに財力を誇る男……やはりこいつは盗賊の一味と考えた方が順当だ。しかも県をあげて盗賊の一味とあらばここらでは江賊だ!
 霜を置く髪、水夫(かこ)か漁(すなどり)のような古びた鞍皮のような肌に、狡猾で残忍な光を宿す目をもつ粗野な男を三明は想像した。胡桃の殻を握りつぶした楊のような凄みを帯びた容貌を思い描く。
 「満月の夜は楼に上って私は琴を奏でるの。私の琴に和してお館様はよい声で歌う。そんなときは月の光はやわらかで、鳥の羽のように重さを失い、河原の砂のようにさらさらと私たちを包むのよ。私たちは黄金の空に舞う胡蝶になって無心に舞うのよ」
 月華は目を細めた。
「……姐さんの夫はずいぶん風雅ですね」
 狐につままれた面持ちで三娘はかぶりをふった。
「そりゃそうさ、都で……」
 しまったとばかり月華が口をつぐんだ。『都で……』の続きは一体なんなのだろう。
  
 館の一室で三明と三娘は奇妙な男と対面した。奇妙な男と言ったが、もしかしたら女だったかもしれない。薄物に手の込んだ縫い取りを施した帳の奥に、異様に白いのっぺりとした顔の者が座っていた。じっと目をこらすとその者は、白い布の仮面を着けていたのでのっぺりとした顔に見えたのだ。しかも、客人である三明たちには一度も言葉を発しない。美しく着飾った月華がこの男の側に控えていて、男が月華に耳打ちすると、この者に代わって月華がしゃべるのだ。
「天が引き合わせた縁(えにし)の思い出に、私は舞を舞ましようぞ。どうかお館様は歌ってくださらぬか?」
 三明は布に穿たれた二つの黒い穴にじっと目を凝らした。困ったように仮面の
目が瞬きを繰り返した。
「今はまだその時ではない」
 澄ました顔で月華が応えた。
 
続く。