丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十五
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十五
「……江の頭領」と、つぶやいたまま三明は言葉が続かない。
彼の驚愕ぶりがよほど面白かったのか江の頭領は、うふふと笑った。笑うと眉間からさっと白い光があふれた。ああ、この男は袁紹に似ている。袁紹もむかし、このような顔をして笑った。
ああ、あぶない男だ、舌先三寸で人を蕩(とろ)かす類だな。危ない危ない。才が伴えばよいが、たいていは只の凡才だ。月華姐さんも危ない男に惚れたもんだ、下手すりゃ獄門首だぜ。とは言っても、危ない男ほどおもしろみがあるからやっかいだ、あの目で見つめられりゃ、ふらふらと引き寄せられるのも無理はない。
彼の驚愕ぶりがよほど面白かったのか江の頭領は、うふふと笑った。笑うと眉間からさっと白い光があふれた。ああ、この男は袁紹に似ている。袁紹もむかし、このような顔をして笑った。
ああ、あぶない男だ、舌先三寸で人を蕩(とろ)かす類だな。危ない危ない。才が伴えばよいが、たいていは只の凡才だ。月華姐さんも危ない男に惚れたもんだ、下手すりゃ獄門首だぜ。とは言っても、危ない男ほどおもしろみがあるからやっかいだ、あの目で見つめられりゃ、ふらふらと引き寄せられるのも無理はない。
「ここで見たこと、聞いたことは忘れるのだね、曹孟徳の耳目どの」
そう言うと頭領は高らかに笑った。
曹孟徳の耳目という言葉に反応した商人はいない。彼らはすでに知っていたらしい。
「てまえは商人ですがね、商人仲間の情報は蜘蛛の巣みたいなもの、獲物をしかと捕らえますぞ。簀巻きにして江に投げ込むことだってたやすかった。そうしなかったのは月華姉さんの顔を立てたまでよ」
「てまえは商人ですがね、商人仲間の情報は蜘蛛の巣みたいなもの、獲物をしかと捕らえますぞ。簀巻きにして江に投げ込むことだってたやすかった。そうしなかったのは月華姉さんの顔を立てたまでよ」
安息国の末裔はおかしそうに肩をすくめて笑った。毛むくじゃらで憎めない顔をした商胡である。
「蛇の道はなんとやら、いざのときは新婦の命をあずけましたぞ」
頭領はにっと顔をほころばせた。
無言で三明は頷いた。
それにしても三明たちはもっと早く気がつくべきだった。江水の難所の一つである洞庭湖を通ったときに気づくべきだったが、水行に慣れていない悲しさで、五感が鈍磨していた。前後を大勢の私兵を乗せた戦船に守られたこの大船が螭(みずち)を描いた大きな幟を翻し、鉦(かね)や太鼓を鳴らすと出会った船はお辞儀をするように必ず路を開けてくれた。地元の水先案内人と交渉するときも、案内人は掛け値もせずにかしこまっていたではないか。
大官のお忍びと思われたのかもしれない。あるいは知らせが行っていて各地の盗賊と話がついていたのかも知れない。船は行く先々の港でいつも丁重に扱われた。おかげで盗賊の襲撃を心配することもなく三峡に入ったのである。何も知らなかった三明たちはただ、ただ、己の僥倖を天に感謝するばかりだった。巴郡(今の重慶)に近い魚復(今の重慶)という港から成都へ早馬が出ていると聞いたので、金細工商の朱への手紙を託した。
湖南省常徳市 洪江に浮かぶ烏蓬船(うほうせん)
漁夫の船か? 江蘇省では有名ですが、ここらあたりでもあるのですね。
重慶特別市の瞿唐峡(くとうきょう) ここも難所の一つである。 紅葉のころはいいですね。
巴郡で頭領たちと別れることになった。成都まで一緒だと思っていたので思わずどこへ行くのかたずねた。
「商売というものは人を出し抜いてこそ大儲けできるものです。わざわざ手の内を明かす愚か者はいませんやね」
霞がかかったような曖昧な顔で頭領は答えなかった。
「また会うこともありましよう」
商胡の安は人懐こい笑顔を向けた。
総勢百人を越える一行は幾組かに分かれて旅立っていった。三明たちは一行の姿が小さくなるまで見送った。
「あん人たちは狭くて危ない山道をこえて交州に入るつもりだ」
短剣使いの許が嘆息まじりにつぶやいた。
「ああ、なんて男たちだ……」
幻術使い宋がしきりに首を振った。
巴郡は五斗米道という道教を起こした張脩の故郷である。三娘と三明の巫女と易者という生業には不向きだった。なにか相談事があれば五斗米道にかけこむからだ。実入りなどまったくあてにできないが、泊まるところと食事は五斗米道が街道にもうけた宿駅で世話になった。黄龍の餌まで世話になったので、別に信者でもないが五斗(今のおよそ十リットル)の米を寄進した。巴郡から漢中にまで張脩の信者がいたから大したものである。
「はあ、たいしたものですね。教祖のお力は」
旅人の世話をする実直そうな老人に三明は話しかけた。老人は薪を割る手をとめた。
「はい、教祖様は鬼神をも使いなさる。わしらには想像もつかぬ力を持っている」
「ほう、そりゃすごい」
三明は大げさに驚いてみせた。
「遊び暮らすのも性にあわねぇ。替わりましょう」
三明は老人から斧を受け取ると、手慣れた手つきで丸太を割る。
老人は地べたに尻をおとすとため息をついた。
「まあ、張魯とは何者ですの?」
三娘が黄龍の頭を撫でながら顔をあげた。
「まあ、道教ですか?」
「わが師ほどのお方はおらん。なのに張魯の祖父さんが死んで魯の親父の代になると、祖父さんを天師と崇めよった。魯の親父が亡くなると魯が教団を受け継いだのじゃが……」
またもや老人はため息をついた。
中の写真は石段。
下の写真は道教寺院への塀 大邑県鶴鳴郷
写真はすべてグーグルマップより転載。
続く。