誤伝1  呂布の母は虎で、劉備の三顧の礼は無かった

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写真は漢の長安城跡
あたり一面にとうもろこし畑が広がる。なんだかむなしい景色だが、古人たちがみた風景はいかなるものだっただろうか?
鉄塔がたつ小山は秦の始皇帝阿房宮(あぼうきゅう)の土台である。小山に上る小道をあがってみる。悲しさと虚しさに襲われる。

「実際に起きたことで記録されないことを失伝といい、なかったのに伝わっていることを誤伝という」と、「中国昔話集1」(平凡社東洋文庫)に記されている。
この昔話によると、呂布貂蝉(ちょうせん)は人間の父と虎の母親の間にうまれた子だという。
父親の呂淵は貧乏な塾の先生だった。ある夜、王という家の娘が訪ねて来た。当時、若い娘がひとりで若い男のもとを訪ねるなど、とんでもないことだった。相談したいことがありまして……と娘が近づき、淵をとろかした。兄の様子が変だったので、弟の呂方が様子をうかがっていると女の声がする。こりゃ変だ。弟は夜になると兄の家を見張り続けた。一匹の雌虎がやってきて、兄の家の前で虎の皮を脱いで女に化け、兄の家の中に入って行った。びっくりして弟は腰が抜けそうになったが、とっさに虎の皮を隠してしまった。
皮を隠してしまうと元の姿に戻れなくなるのが、このような話の定番らしい。ほら、猫守の住む現代にも、人の皮をかぶった鬼だとか悪魔はごまんといて、いともお手軽に悪いことをする。
虎に戻れなくなった女は、淵と夫婦になって数年のあいだに呂布貂蝉(ちょうせん)を生んだ。
あるとき夫婦喧嘩をした。淵はたいていたけだけしい妻にうち負かされていたが、いつも負けていては男のメンツがたたぬと思ったらしい。
「この雌虎(めすとら)めが」と罵った。
「雌虎だって! なんの証拠があって妻を虎呼ばわりするのよ」と妻がかみつく。
「証拠だと? 神棚を見てみろ。ちゃんと虎の皮があるじゃないか」
すると、妻は、上へと駆け上がり、ついに虎の皮を見つけてしまった。皮をかぶって虎に戻った妻は夫を食い殺し、ついでに弟の方まで食い殺して山に帰った。
さすがに子供たちを食う気にはなれなかった。呂布は丁建陽に養われ、貂蝉は王司徒の女中になったが、このことは三国志にはみえないから、誤伝だと昔話は告げる。
でも、呂布の腕力と勇猛は母の雌虎から受け継いだものだという。また、呂布貂蝉は顔が似ていたという。

劉備三顧の礼についてこんな誤伝がある。
劉備が樊城(はんじょう)に駐屯していたときのことだ。
このとき曹操が河北を平定したと知った諸葛亮(字は孔明)は、次に曹操の標的になるのはこの荊州(けいしゆう。湖北省)だと思った。ところが劉表は切れるタイプではなく、軍事に関してはど素人もよいとこ。そこで亮は北に出向いて劉備にまみえた。もとより、旧交があったわけではない、しかも若造だ。劉備儒家に対するような扱いで、奇策の持ち主として扱わなかった。酒宴は終わり、衆人はみな引き揚げてしまった。亮ひとり、一向に帰る気配はない。
むかし、劉備は「むしろ」を織ったり、靴を作って糊口をしのいでいた。もともと手先が器用だったらしい。房を編むのが好きだった。

そのとき劉備は毛の長いタイプの牛の尾を贈られたばかりだった。亮のことなど眼中にない。無我夢中で牛のしっぽを編んで房をこしらえていた。たまりかねた亮が前に進み出る。
「将軍よ、あなたには遠志がござるはずだ。ただ房を編むことに夢中になるだけでよろしいのか」
はじめて劉備は亮を優れた人物だ悟った。
「いやいや言わんとすることはわかるぞ。わしはちょっとばかり憂いを忘れていただけのことじゃよ」
かくて二人は曹操への備えや、衆数千あまりだった劉備の衆を大いに増やす秘策を練ったという。

これでは諸葛亮みずからが、劉備に売り込みにいったことになり、三顧の礼など存在しなくなる。
しかも、劉備ときたら客人の前で、まずしい過去の生業(なりわい)をさらけ出すかのように房を作るのに熱中している。
これは「魏略」より訳出したが、本当だろうか?
諸葛亮自身の著作のなかに三顧の礼のことが書き残されているので誤伝と思われるが、もしも「魏略」が真実としたら……うーん、どうなんでしょうか。

最後に劉備諸葛亮を推薦した徐庶(じょしょ)という男は面白い。
徐庶は「史記の遊侠伝」そこのけの男である。若いころは街のチンピラで任侠を気取って街の中をのし歩いていた。あるとき、知り合いの仇討ちをした。このとき、顔面を白い土に突っ込んで人相を変え、髪をザンバラにして逃げたが、役人につかまってしまった。口を割らせようとしたが姓名を名乗らない(どうせ拷問にかけられたのだろう)。そこで杭にはり付け、「この顔に見覚えはないか」と触れながら市中を引きまわした。だれも知らないといった。徐庶の仲間たちが彼を盗み出して、一命をとりとめた。そのとき、彼ははっと目覚めて学問を志した。塾に通うと塾生たちは犯罪者と同室するのを嫌った。誰よりも早く起きて掃除し、黙々と学び、学問に精通する彼の姿にやがて塾生たちの視線は暖かく変わっていった。そして、諸葛亮と親しくつきあうようになったという。