『穆天子伝』の崑崙の墟(おか)と西王母の国

         『穆天子伝』の崑崙の墟(おか)と西王母の国
 
 なぜ、私は雑多な史料のなかを遊泳するのだろう? 魅力があったからに違いないが、三国志関係の史料から大いに逸れてしまい、たぶん使うことなくこのまま眠らせておくことになる。そして忘れ去ってしまう。少しもったいないのでメモがわりに記しておくことにした。
 
 『穆天子伝』は西晋時代に、汲郡汲県の不準という男が古墓を暴いたときに車数十台分の竹簡(穆天子伝を含む)を得た。墓は戦国魏の襄王(在位前318~前281)または安釐王(前276~前243)の冢とされるが、出土年や墓の被葬者について史料により異なる。汲県の冢(つか)からでた書であるから、『汲冢書(きゅうちょうしょ)』といわれ、七十五編のうちの一篇が穆天子伝だという。『汲冢書』の多くは失われたが勅命により西晋時代の一流の学識者によって整理され当時通用していた文字で書写された。『穆天子伝』五篇と「雑書十九篇」中の一篇『周穆王美人盛姫死事』とをあわせた六篇が現在通用している『穆天子伝』六巻だそうだ。その内容は「周の穆王満は四海を遊行して帝䑓・西王母に見ゆる」と晋の学者が言った。
イメージ 1
イメージ 2
 上の地図は西晋の汲郡汲県で、今の河南省新郷県衛輝市孫杏村鎮の汲城村に相当します。あたりを地図上で散策したのですが、戦国魏の王の墓らしい遺跡は残っていないようです。
 航空写真でみると、赤いバルーンは木々が茂る丘の裾をさしています。この丘がかっての墓の名残かもしれません。
 
  崑崙の墟(おか)
 西王母と穆天子は崑崙の墟であったとありますがその所在地については種々の説がありますが、小川琢治というえらい学者さんは「涼州の南、古浪県付近の南山の東北麓を成した丘陵地」と推定されています。
 この地は甘粛省武威市古浪県には南山と呼ばれる山があります。
イメージ 5
 甘粛・古浪県の南山中の小村
 
イメージ 6
甘粛・武威市古浪県南山
古浪県には川もあり峡谷になった池もある。
 
また、敦煌までのあいだには砂漠もあり風が、あるいは砂嵐か? 風に侵蝕された
奇観、魔鬼城がある。城といっても人工の城ではなく自然が作ったものである。
イメージ 7
甘粛省敦煌市雅丹の魔鬼城
イメージ 8
甘粛・雅丹 魔鬼城
イメージ 9
甘粛・雅丹
イメージ 10
甘粛・雅丹 魔鬼城の自然
 
 西王母の国
 小川琢治氏は、「西王母の国は天山の東北端にあって北は砂漠に面する『巴爾坤』すなわち漢書西域伝『卑陸後国』の王、番渠類谷に治す」により、蒲類海(巴爾坤諾爾)に臨んだ地方と察せられる」 と、推察されている。

蒲類海
 今の新疆鎮西縣西北にある。唐人はまた婆悉海となづけた。今の名は巴爾庫勒泊(バルクリポア湖)である。
後漢書竇固傳》に「竇固、呼衍王を撃ち,追いて蒲類海に至る」の蒲類海である。
イメージ 11
イメージ 12

新疆クルム地区の地図と航空写真左上の湖が蒲類海
今の名は巴里坤(バルクン)湖
イメージ 13
蒲類海(今の名は巴里坤湖)バルクン湖
イメージ 14
バルクン付近の天山山脈イメージ 15
古のシルクロードの名残をとどめる烽火台





 
イメージ 3
青海省を行く四輪駆動車。
イメージ 4
青海省アバ地区 黄河と長江の分水嶺
黄河の源を探していたらこんな写真がアップされていました。流れる水はここで一方は黄河となり、もう一方は長江となるのですね。水はみな、信じられないほど清冽だそうです。

 西王母の容貌
 西王母の原始的な容貌は虎の牙と爪をもち、髪飾りをつけているという、怪異な容貌である。穆王は歓を尽くし三年の間、帰るのを忘れたという。いくら異国の女性とて恐ろしげな容貌の女性と三年の間、帰るのを忘れることがあろうか?
 これは四神思想によるものらしい。
 西方の神ゆえに白虎にふさわしく西王母に虎の牙と爪を装備させたのではないかという説もある。
 後世、西王母は絶世の美貌で仙界に君臨する。
 
参考文献
小川琢治「支那歴史地理研究」
 
「穆天子伝」訳注稿[一]監訳桐本東太
               訳注 岡本真則 島田翔太 富田美智江ほか
 
写真、地図はすべてグーグルマップよりお借りしました。